誰でも書ける

誰でも練習次第で絶対書けるようになる

 国語というと文学の教育だという先入観が先生方にもあって、実際先生方の中にも文学を教えるのが好きな方が多くいます。
 しかし、進学する人も就職する人も、文学部に進む人にも、社会科学系の学部に進む人にも、理科系の進路を選ぶ人にも、みんなに教える必要があるものを国語で提供しないとしたら、義務教育や高校で国語を教える意味があるでしょうか。
 作文の教育についても同じで、まず高校で作文を教えるときに重視しなければならない点は、何か気の利いた文章を書けるということではなくて、何かの対象について、混沌の状態から自分が自分の意見として言えることを探り出し、それを一つの文章としての形にまとめあげることができるということです。
 どの分野で活躍するにしろ、例えば町内会の回覧板にしたところで、伝えるべき内容をきちんと伝えることができる、さらにはできれば自分のそれに対する姿勢(意見)も自由に伝えることができることは、誰にとっても大切なことであるし、実際それができる人間はすばらしいでしょう。ところが多くの人たちは、そういう立場になってもなお、「自分は苦手だから」といって逃げてしまうのです。そういうとき、「自分は苦手だけれども、一生懸命書くから、そんな文章でもよかったら」と言えたら、あなたの生き方はどんなに変わってくるでしょうか。
 文芸的な文章なら、才能のあるなしが影響するでしょう。しかし、私が今ここで書いているような実用的な文章なら、才能のあるなしはそれほど関係ありません。というよりも、才能がなくても、何とか自分の意見として何が言えるかということを一生懸命考え、それを他人に伝えようとして自分なりに文章を書く努力をしていれば、私が書いているようなこれくらいの文章なら、誰でもいずれ絶対に書けるようになるはずです。
 高校時代私が特別文章を書ける生徒であったわけではありませんし、実際後から高校時代の作文などを見ると冷や汗ものです。もしそんな私に取り柄があったとすれば、内容はともかくとして、書くこと自体は嫌いではなかったということでしょうか。
 生徒に作文の指導をしてみると、「私より才能・センスがあるなあ」と思う生徒は正直言ってたくさんいます。そのような、本当は可能性のあるかもしれない人たちが、「文章を書くのが苦手だ」と言って自分の才能を磨こうともしないで、自分が決めつけたように駄目な自分になっていきます。惜しいというほかありません。
 「苦手」でもちょっとずつ努力をしていれば必ずそこそこの文章は書けるようになります。「自分だけが苦しんでいるのだ」と思わずに、ちょっとでも前に進む努力をしていれば、割合早い時期に「ちょっとは思うように書けたかな」という達成感も感じられるようになるでしょう。そうすればしめたものです。後は苦労は苦労でも、「何とかしてみよう」「何とかしなければ」という気持ちになるのです。
 そうして気がついてみると、依然として本人の苦手意識は抜けないのに、逆に周囲の人間からは、「文章を書ける人間」だという目で見られるようになるから不思議です。
 文章を指導する側からいうと、ポイントとなる言葉(文章にはこれがあるからしまってよい文章になっているというフレーズがあったりします)を本当は教師が付け加えてやったのだとしても、「自分でその文章を努力して仕上げたのだ」という達成感を生徒に感じさせてやることが大切です。そうすれば後は生徒が自分で努力をしてくれます。(もちろんその文章は、客観的に見てもある程度完成度のある文章でなければならないことは言うまでもありませんが。)

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