文章を形で考えない

文章を形から考えてはいけない

【例文2】
(1)街頭インタビューで、高齢者に「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼びかけるインタビュアーを見かける。(2)そのうえ、「おいくつですか。」「お元気ですね。」などと言っている。(第一段落)
 (4)高齢者に対して、「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼びかけるべきではない。(6)自分の祖父母でもない人に、「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼びかけるのは、デパートで働いている店員や交通機関で働いている人たちに、「おねえちゃん」「おにいちゃん」と呼びかけるのと同じく失礼である。(第二段落)
 (3)高齢者に聞くと、多くの人は自分が老人だとは意識していないという。(5)電車の中で席を譲られて機嫌をそこねる高齢者もいる。(8)自分の孫でもない他人、それも一人前の大人から、「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼びかけられたときには、「自分も、そんな年に見えるのか。」とショックを受けるだろう。(第三段落)
 (7)友人が勤めている病院では、医師や看護師が高齢の患者を「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼ばず、その人の名前で呼んでいるという。(9)相手の個性を消し去って、見かけの年齢だけで一まとめにする呼びかけはやめるべきだ。(第四段落)
(※この例文は、京都書房『国語表現Ⅱ』(国語Ⅱ007 平成15年文部科学省検定済み)の教科書P21から引用しています)

  1.  下の教科書の説明を読んで、この文章の構成の素晴らしさを実感できましたか。
  2.  (6)で、自分の祖父母でもない人に、「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼びかけるのと、デパートで働いている店員や交通機関で働いている人たちに、「おねえちゃん」「おにいちゃん」と呼びかけるのとの共通点は何でしょうか
  3.  (7)の例は何を言うための例でしょうか。

 問1の完成度について、この教科書の編者はどう考えているかを聞いてみましょう。

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 例文1と比較すると、例文2のほうが読みやすいことがわかる。例文1では、あれやこれやと未整理のまま書かれているが、例文2では、内容が四つの段落に整理されている。ただ行変えをして区切って書いてあるだけではない。一つの段落では、一まとまりの内容だけが述べられている。
 また、それぞれの段落には次の働きを持たせている。

第一段落……経験したことを報告する。
第二段落……それに対する自分の考えを述べる。
第三段落……意見が正しいことの理由を挙げる。
第四段落……事実を挙げて、意見を述べる。

 段落は、文章を構成する、意味のまとまりとして設けるものである。
(※京都書房『国語表現Ⅱ』(国語Ⅱ007 平成15年文部科学省検定済み)の教科書P22)

とあって、その下に「しっかりした構成で文章を書くには」というような説明をしているのですから、例文2は例文1を推敲して、「しっかりした構成のよい文章」になっているという捉え方をしていることは明らかです。
 しかし例文2が、「構成のしっかりした良い文章」であるというようなことを、生徒に教えては困るのです。例文2の文章のでたらめさは、もう既に『内容を整理しよう』で説明した通りです。

問2 「おねえちゃん」「おにいちゃん」と呼びかけるのと同じく失礼?

 (6)の、「自分の祖父母でもない人に、『おじいちゃん』『おばあちゃん』と呼びかけるのは、デパートで働いている店員や交通機関で働いている人たちに、『おねえちゃん』『おにいちゃん』と呼びかけるのと同じく失礼」だという理由は何なのでしょうか。このように比較して書く以上、この前後を読んで「どこが共通する本質的な問題なのか」ということがきちんと説明されていなければなりません。もし「同じ」と書いて、その内容を書かなければ、思わせぶりなだけで、「内容は?」と問うと、全く中身がない文章になってしまいます。
 この文章の場合、このような説明なしの文章で推敲できたと満足していることを考えると、この理由を問われても、筆者は絶対に答えられないはずです。そういう意味で、筆者や、例文2までの推敲を手がけた教科書編纂者は、自分の書こうとしていること(意見)が何なのか、さっぱり分かってはいません。
 筆者が考えられていないのなら、私たちが答えてあげるしかありません。さて理由は何でしょうか。
 この問題は実はもう既に考えておきました。(9)にある、「相手の個性を消し去って、見かけの年齢だけで一まとめにする呼びかけ」であるという点です。そのことをきちんと筆者や添削者が把握していれば、この文章は絶対に、例文2のような形のままになっているはずがありません。

問3 (7)の病院の例はどうして必要なの

 (7)の病院の例はどうして必要なのでしょうか。この問題を考えるために、先の教科書の説明をもう一度見ておきましょう。
 この説明では、(7)の病院の例は、四段落の「意見を述べるために挙げた事実」だということのようです。
 この文章を読んでいるあなたは、この説明を読んで、例文2が「構成のしっかりした良い文章」であるという理由に納得がいきますか。

  • 第一段落の「経験の報告」と、第四段落の「事実」とはどう違うのでしょうか。
  • 第二段落の「自分の考え」と第四段落の「意見」とはどういう関係なのでしょうか。

 例文2を読んでも、それへの教科書の解説を読んでも、上の問への解答はさっぱり分かりません。
 このような説明の仕方で良い文章だと教えられたら、あなたはどういう文章を書こうとしますか。
 そうですね。「まず、自分の体験したことを書いて、次に主張、その理由を書いて、何か聞いた事実を書く。それを元にして、結論になりそうな考えを書いてまとめる。」こうならないでしょうか。絶対になりますよね。
 文章を形でとらえようとすると必ずこれと似た発想の仕方になります。「予想される反論を少しだけ書いて、それから自分の考えをたくさん書く」なんてのも同じです。
 『自分の体験したこと』『聞いた事実』を書くことが、『自分の考え』『意見』を言うのになぜ必要なのか、前に書いた『自分の考え』と後の『意見』とがどういう関係なのか、文章を形から捉えるのではなくて、こういう風に内容から捉えようとしない限り、「構成のしっかりした良い文章」など絶対に書けるはずはありません。
 「構成のしっかりした良い文章」というのは、「言いたいことに向かって、それを構成する部品がすべて有効に働いている文章」のことなのですから。
 例文2の作者が、(7)のところで書けなくなって、(9)をとってつけたように付け加えたのは、主張をする上での(7)の役割をきちんと把握していず、教科書の解説のように文章を形でしか考えていないからです。

(7)の病院の例の必要性

 (7)の例のこの文章での役割についてももう既に考えてありますが、もう一度復習しておきましょう。
 「(9)相手の個性を消し去って、見かけの年齢だけで一まとめにする呼びかけ」だから、(4)「高齢者に対して、『おじいちゃん』『おばあちゃん』と呼びかけるべきではない。」のですよね。ところが段落一のように、我々は普通そういう呼び方をしています。
 していないところは?ありました。病院です。要するに、我々は普通そういう呼び方をしている人が多いのに、「それじゃあいけない」と考えて、名前で呼ぶように気をつけている人たちも居たんです。すばらしいじゃあないですか。大げさに言えば先駆者です。
 それなら、そう。我々も先駆者に続くべきですよね。
 そういうつながりで「(7)の病院の例」はこの文章に必要なのです。何もここで事実を書いた方がいいからじゃあありません。
 このような(7)の病院の例の役割をきちんと筆者(添削者)が理解していたら、そう、例文2のように、この文を(3)(8)に続ける形で、(7)を言いっぱなしにして、(9)に無造作につなげていくような書き方は絶対にしないでしょう。

文章を形式で考えようとしないことが大切

 この教科書の解説のように、文章の良さをこれと似たような形式で捉えることは平成の時代のこの教科書だけではなくて、令和になった現在の教科書でも比較的よく見受けられます。しかしそれらはこの教科書と同様、やはり内容の吟味が疎かになっていることが多いので、示されている模範例文が、おかしな論理構成の完成度の低い文章になっていることが多々あります。
 検定教科書ですらこの程度のものなので、文章を形で捉えようとする傾向のある人や、そのような解説書を参考にする場合などには、十分に気をつけなければなりません。

ねこにボロカスに書かれるのはむしろましな教科書だ

 これもよく言うことですが、ここで取り上げた京都書房の教科書はとんでもなくひどい教科書のような印象を私の解説を読んだ人は抱くかもしれません。
 しかし、世の中にある作文の教科書や参考書など、これよりひどいものはごまんとあります。それらのものは、読む価値も、取り上げる値打ちもないので、ねこが話題にするようなことはまずありません。
 ねこが話題にして取り上げるのは、それを考えることで文章の書き方について色々考える要素があるからですから、むしろ教科書・参考書の中では比較的がんばっているましな部類のものであることがほとんどなのだということは追記しておきます。(でも、樋口はどうしようもなくやっぱり全く駄目ですが。)

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