指示語使用の難しさ

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指示語使用の難しさ

勢いで書いた指示語把握の難しさ

 これも自分が述べたいことをまだきちんと把握しないまま勢いで書いてしまったために、文章がよく分からなくなってしまった例です。この頁では、昔、どの教科書にも入っていた超有名教材である『ミロのヴィーナス』(清岡卓行)の、一番最後の部分を取り上げてみました。
 この文章で書かれている内容を自分自身きちんと納得して説明することができるでしょうか。①~⑥の指示語が何を指すのか、どうしてそのように答えが導き出されるのか、説明してみてください。これらの答えは結構微妙で、教師用の指導書にも、各社好きなことが書かれています。もちろん書かれている答えもバラバラです。

『ミロのヴィーナス』(清岡卓行)
 なぜ、失われたものが両腕でなければならないのか?僕はここで、彫刻におけるトルソの美学などに近づこうとしているのではない。腕というもの、もっと切り詰めて言えば、手というものの人間存在における象徴的な意味について、注目しておきたいのである。①それが最も深く、最も根源的に暗示しているものはなんだろうか?②ここには、実体と象徴のある程度の合致がもちろんあるわけだが、③それは、世界との、他人との、あるいは自己との、千変万化する交渉の手段である。言い換えるなら、④そうした関係を媒介するもの、あるいは、⑤その原則的な方式そのものである。だから、機械とは手の延長であるという、ある哲学者が用いた比喩はまことに美しく聞こえるし、また、恋人の手を初めて握る幸福をこよなくたたえた、ある文学者の述懐は不思議に厳粛な響きを持っている。どちらの場合も、極めて自然で、人間的である。そして、例えば⑥これらの言葉に対して、美術品であるという運命を担ったミロのヴィーナスの失われた両腕は、不思議なアイロニーを呈示するのだ。ほかならぬその欠落によって、逆に、可能なあらゆる手への夢を奏でるのである。
(傍線部に番号を付しました。『現代文A』 東京書籍 令和2年2月発行を底本にしました。)

文章の分析

 ①は、「それが~暗示している(=象徴している)もの」ですから、「腕」もしくは「手」しかありません。
 ②は、指示する内容が本文中には全く出てこないので、指すものを問われても、戸惑うだけです。強いて答えるとすれば、「手というものの人間存在における象徴的な意味」=「手(腕)が最も深く、最も根源的に暗示しているもの」が生まれる背景。もっと本文に即してくどい表現をすれば、「手というものが人間存在において以下のような象徴的な意味を持つようになった事情」=「手(腕)が最も深く、最も根源的に以下のような内容を暗示するようになった事情」とでも言いましょうか。
 この②から始まる指示語が何を指すのかよく分からない上に、曖昧な接続を許してしまう「が」を使った一節、「ここには、実体と象徴のある程度の合致がもちろんあるわけだが、」という挿入句を入れてしまったおかげで、その後の③「それ」が指す内容が、余計分からなくなってしまいました。
 更に追い打ちをかけるように、①「それ」と③「それ」は同じ言葉なのに、違うものを指そうとしていることで余計分かりにくさが助長されています。
 試みに②から始まるこの一節を取り除いてしまう、もしくは、ここを、「象徴的な意味はもちろん手の実態があってこそ生まれるものであるが」というような一節に変えてしまうと、これは同じ曖昧な接続を許す「が」ではあっても、その後に続く意味はよほどよく分かるようになります。
 ①の「それ」も指示語を使わずに、内容そのものに言葉を変えておきます。
 次の文章で、③の指示する内容を考えてみてください。

『ミロのヴィーナス』(清岡卓行) ちょっとした推敲後
 なぜ、失われたものが両腕でなければならないのか?僕はここで、彫刻におけるトルソの美学などに近づこうとしているのではない。腕というもの、もっと切り詰めて言えば、手というものの人間存在における象徴的な意味について、注目しておきたいのである。①手(腕)が最も深く、最も根源的に暗示しているものはなんだろうか?(②象徴的な意味はもちろん手の実態があってこそ生まれるものであるが、)それは、世界との、他人との、あるいは自己との、千変万化する交渉の手段である。言い換えるなら、④そうした関係を媒介するもの、あるいは、⑤その原則的な方式そのものである。だから、機械とは手の延長であるという、ある哲学者が用いた比喩はまことに美しく聞こえるし、また、恋人の手を初めて握る幸福をこよなくたたえた、ある文学者の述懐は不思議に厳粛な響きを持っている。どちらの場合も、極めて自然で、人間的である。そして、例えば⑥これらの言葉に対して、美術品であるという運命を担ったミロのヴィーナスの失われた両腕は、不思議なアイロニーを呈示するのだ。ほかならぬその欠落によって、逆に、可能なあらゆる手への夢を奏でるのである。
(傍線部に番号を付しました。)

 こうなってみると、③「それ」は、「手(腕)が最も深く、最も根源的に暗示しているもの」であることは明らかです。
 ③「それ」は、「手というものの人間存在における象徴的な意味」であるとしている解説書もあり、その答えでも全くの間違いであるというわけではありません。確かに、図式として捉えようとする場合には、
  「手というもの人間存在における象徴的な意味」
    =「手(腕)が最も深く、最も根源的に暗示しているもの」
という説明をしがちですし、それで良いと私も思います。
 しかし、そのような解釈を許すのは、文章を流れから切り離して、理屈で捉えようとしてしまうからです。
 上のような書き換えた文章を見れば、③「それ」は、遠いところにある「手というもの人間存在における象徴的な意味」ではなくて、「手(腕)が最も深く、最も根源的に暗示しているもの」を指していることは一目瞭然です。
 そしてこの読み取りが正しいことは、以下に続く表現からも裏付けられます。「暗示しているもの」=「手段」(手段を暗示している)とは言えても、「象徴的意味」=「手段」(手段が意味である)とは言えないからです。もし象徴的な意味を言おうとするなら、おそらく、「象徴的意味」=「手が手段であるということ」(手が手段であるという象徴的意味)となっていなければならないはずのところでした。

生徒にどこまでの読解を要求するのか

 以上の読解は、最大限に深く読んでいった結果で、筆者がきちんと書ききってはいないものを、ここまで生徒に読解させる必要があるとは私も考えてはいません。ここで大切なことは、③「それ」は、「手(腕)」ではダメで、「手が暗示しているもの」を指すということですから、生徒に指導する場合には、「手というもの人間存在における象徴的な意味」でも、「手(腕)が最も深く、最も根源的に暗示しているもの」でも、どちらでも正解としておけば良いと思います。

筆者の内容把握度はどの程度か

 この文章は、途中よく分からなくなる表現があって、読解が困難ではありますが、以上のように流れ的には、③「それ」以降に続くところで一応混乱してはいませんから、「筆者が自分の書こうとしていることをきちんと把握してはいない」とまで言うのは、酷評にすぎるかもしれません。しかし、勢いにまかせて文章を書いてしまった結果、自分が使う指示語にまで気が回らなくなって、極めて分かりにくい文章にしてしまったということは確かです。

④「そうした」は何を意味するか

 ④「そうした」が指す内容もかなり微妙です。さて、直前の「千変万化する」は「交渉」に掛かっていくのでしょうか。それとも、「手段」に掛かっていくのでしょうか。
 「関係を媒介するもの」=「交渉の手段」ですから、「千変万化する」が「手段」に掛かっていくと考えた場合、④以下の表現ではあっさりしすぎています。「そうした関係を媒介する変幻自在なもの」とでもなっていなければなりません。
 視点を変えて、④「そうした」が、「世界との、他人との」を指すと考えた場合、「手は自他の関係を象徴している」という単純な話になってしまいます。もしそのことを表現したいのなら、③の文章に、「千変万化する」というような思わせぶりな表現を何も付け加える必要はありません。ただ、「世界との、他人との、あるいは自己との、交渉の手段である。」と言ってしまえば済む話です。
 しかし、ここの所を、筆者は敢えて「千変万化する」と付け加えているのです。ですから、「千変万化する」のは、「関係を媒介するもの」=「交渉の手段」なのではなくて、「関係」「交渉」であると考えなければなりません。「千変万化する」のは、「交渉」であって、そういう様々な関係を象徴するのが手の役割なのです。
 そのように考えれば、④「そうした」は、「世界との、他人との、あるいは自己との、千変万化する」までを指すのだと考えるべきです。
 こんなに回りくどい考察を読者に要求しないで分かりやすく表現するためには、ここのところは、「自他の様々な関係を」ぐらいにしておいた方が良のではないでしょうか。

⑤「その」は何を意味するか

 ⑤「その」は、「そうした関係を媒介する」を指します。

⑥「これらの言葉」は何を意味するか

 ⑥「これらの言葉」は、「機械とは手の延長である」や「恋人の手をはじめて握る幸福をこよなくたたえた、ある文学者の述懐」を指します。これは指すものは迷いませんが、「これらの、手が自他の交渉の手段として極めて重要な意義を持つと捉えた言葉」とした方が、これも文意は飛躍的に理解しやすくなるはずです。

ちょっと自分の好みも加えて添削してみた

『ミロのヴィーナス』(清岡卓行) 最終推敲例
 なぜ、失われたものが両腕でなければならないのか?僕はここで、彫刻におけるトルソの美学などに近づこうとしているのではない。腕というもの、もっと切り詰めて言えば、手というものの人間存在における象徴的な意味について、注目しておきたいのである。
 ⑦さて、手(腕)が最も深く、最も根源的に暗示しているものはなんだろうか?(②象徴的な意味はもちろん手の実態があってこそ生まれるものであるが、)それは、世界との、他人との、あるいは自己との、千変万化する交渉の手段である。言い換えるなら、④自他の様々な関係を媒介するもの、あるいは、⑤その原則的な方式そのものである。だから、機械とは手の延長であるという、ある哲学者が用いた比喩はまことに美しく聞こえるし、また、恋人の手を初めて握る幸福をこよなくたたえた、ある文学者の述懐は不思議に厳粛な響きを持っている。どちらの場合も、極めて自然で、人間的である。
 ⑧しかしそして、例えば⑥これらの、手が自他の交渉の手段として極めて重要な意義を持つと捉えた言葉に対して、美術品であるという運命を担ったミロのヴィーナスの失われた両腕は、不思議なアイロニーを呈示するのだ。ほかならぬその欠落によって、逆に、可能なあらゆる手への夢を奏で⑨ているからるのである。
(傍線部に番号を付しました。)

 ⑦⑧⑨といったあたりに、ちょっとだけ自分流の言い回しや改行を加えて、最終推敲例とすることにします。個人的な好みから言うと、まだ気になる表現が残ってはいますが、そこまで言い出すと考え方によって色々になってくるので、ここら辺りで添削は一応の区切りとするのが無難なところでしょう。

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