結局は内容がすべて

結局は内容がすべて

 作文というと「文章の形を整えることだ」というのが世間一般の常識ではないでしょうか。だから、同僚の先生方からも気軽に、「ちょっと表現を見てもらえませんか」と頼まれたりします。ところがこれは「ちょっと」で済むはずはないのです。
 それはまず第一に、前頁で説明したとおり、表現が整っていない文章というのは、自分の考え自体をきちんと整理できていないから、考えを盛る器としての言葉遣いがおかしい文章だからです。それを直させようとするならば、結局は生徒に考える筋道(発想法)を一から指導しなければならなくなります。
 そして「ちょっと」で済まない第二の理由は、文章の善し悪しは、ちょっとした表現が整っているかどうかということよりも、むしろ結局はそこで書こうとしている問題がおもしろいと思われるかどうかということ、すなわち内容があるかどうかということで判断されるということです。
 「ちょっと見てもらえませんか」と頼まれる文章は、たいていの場合、この問題意識(書くべき内容)が欠落しています。このような文章をいくら表現だけ飾ってみても、のっぺらぼうを身綺麗に化粧をする努力をするようなもので、整えれば整えるほど、ますます元の内容のなさが浮き彫りになってしまうだけです(『ねこ』P46参照)。やはりこの場合も、何を問題にすべきかという文章以前の問題にさかのぼって教えなければ、それ以外どうすることもできません。
 ですから、「ちょっと見てもらえませんか」と言われたときには、内容には目をつぶって、本当にちょっと表現を直すだけにするのか、腰を据えて本気で頭から全部面倒を見てやるつもりで取り組むのか、そのどちらかを選ばなければなりません。結局先生も生徒も、「ちょっと」などと言っているうちは、文章にとって何が本当に大事なのかということなど何も分かってはいないのです。
 ところが逆に、少々表現は整っていなくても、本気で言いたくて言いたくてたまらない文章、好きで好きでそのことを伝えたくて書いた文章も時にはあります。このような文章なら、たとえ少々表現にあらがあっても、やはりそれには目をつぶってしまえるほどのインパクトがあります。
 文章のインパクトは、なにを置いても「本気で伝えたいと思うような内容がある」ということにかかっているのです。そのことを、文章を書く場合も、生徒の文章を指導する場合も充分肝に銘じておきたいものです。
 (なおここまでの頁は、財団法人岡山県教育弘済会の平成16年度教育研究集録(第13号)の原稿をもとに改稿しました。)

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