内容あっての表現

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内容あっての表現

世間一般の国語像

 国語教師の中でも、「社会科学系や理科系の文章など、内容がよく分からないから、添削は無理」と考えている人は多いのではないでしょうか。しかしそのように考えてしまうと、「文学関係か、せいぜい日常の一幕を描いた作文程度のもの」しか、国語の守備範囲には残りません。
 そのような国語像を世間の人たちも持っていて、一般に考えられている国語教師のイメージは、「内容の不具合を吟味する」というよりも、「表面的な誤字や字句の不具合を指摘し、修正する」というようなものになっているようです。だから、「国語的にはどうか分からないが、~(教科名が入る)的にはこれでよい」というような言い方が平気でなされます。

世間一般の国語像の2つの問題点

 国語を必修させる意味

 このような国語像には、2つの問題点があります。
 1つ目は、「文学関係か、せいぜい日常の一幕を描いた作文程度のもの」にしか通用しない技術や知識を教えたとして、それが果たしてどれだけ有効かという問題です。
 言うまでもなく、国語という教科は、小学校から高校に至るまで、全生徒が学ばなければならない教科です。その教科が、文学知識を教えるだけのものであったり、せいぜい日常生活を描く作文程度にしか役立たないものでしかないなら、はっきり言って、存在価値はありません。全員に必修にするのは、長くても中学校まででやめてしまえばいいし、誤解を恐れずに言えば、文学限定の知識など、大学に入って専門的に学びたいオタクの生徒だけが学べばいい。
 そうではなくて、高校まで全生徒に必修になっているのは、理科系に進む生徒にも、社会科学系に進む生徒にも、その他専門分野に進む生徒にも、すべてに必要な技術や知識を学ばせるためでなければなりません。
 確かに、文学や古典など、国語科独自の学ばせるべき分野もあります。しかしそれは、多くの時間を割いて国語を教えなければならない理由の一部にすぎません。
 本稿で話題にしている自己表現(「書き・話す」)の技術、特に、書く技術でも、「読み・聞く」技術と事情は変わりません。
 たとえ、最初の取り掛かりとして、文学関係や、せいぜい日常の一幕を描いた作文程度のものを題材にしたとしても、それが、将来専門的な分野で活躍するための土台として役立つものになるからこそ、これらのことを多くの時間を使って、全員に必修させる意義もあるのです。

表現の工夫を、内容の整理と切り離して捉える意識

 2つ目の問題点は、表現の工夫を、内容の整理と切り離して捉えている点です。このように考える人はほとんどが、「表現は少々まずくても、正確な内容を伝えることはできる」と考えています。
 しかし、多くの場合、添削を必要とする文章とは、思考の整理が必要な(内容に問題がある)文章か、問題意識の底が極めて浅い文章なのです。この思考整理や内容の部分をおざなりにして、表面的な字句をいくらいじってみたところで、元々内容がお粗末なものに化粧を施すようなもので、ろくなことにはなりません。
 世間の人は、自分の書いた内容には自信を持っていて、「ちょっと表現を見てもらえませんか」というようなことを言うような人が多いです。しかし、多くの場合、本気でその文章を見てあげようとすると、「ちょっと」で済むことはまずありません。それは、思考整理の根本のところから、考え直していかなければならないからです。
 こういう依頼をする人は、「自分の書く内容に問題点がある」などとは夢にも考えてはいませんから、大人からのこういう依頼の場合は、表面的な字句の修正などを少しだけして、適当なところで切り上げておくしか、手立てはありません。大人は本人のプライドも気にしてあげなければなりませんから、これは致し方のないところです。
 しかし生徒の場合は、そんな所でごまかしていては本人のためにはなりませんから、決心して根本的なところから時間をかけて指導し直していくのか、それともほどほどな所で切り上げていくのかを決めることになります。

表現の工夫とは、内容の整理そのもの

 ですから、表現の工夫を、内容の整理と切り離して考えてはいけません。むしろ、どのような文章を書く場合でも、内容の整理を主要素とする表現の工夫が必要なのです。
 すなわち、自分が本当に言いたかったことを見つめ直し、「イイタイコト」を言うために必要なものはきちんと必要な所に置いて、それ以外の要素はすべて排除する。「イイタイコト」をきちんと印象付けて納得させるだけの具体的なイメージを提供し、反論に対する反論を必ず用意するといったところでしょうか。タイトルの工夫、言葉選びも慎重にしなければなりません。
 しかし、その他に考えられる比喩などの文学的な修辞などは、一般の実用的な文章には、一切なくても全く問題はありません。確かに、優れた内容があって、それをさらに引き立てるためには、技巧が有効な場合もあります。しかし、そんな努力をする前に優れた文章を書くためにしなければならないことは山ほどあります。それをお座なりにして、こざかしい飾りの表現に血道をあげるのは、本質を踏みはずすこと甚だしいです。

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