教科書もでたらめ4

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教科書もでたらめ4

 ここで取り上げたのは、前ページで取り上げた大修館の国語表現 改訂版(国表307 平成29年文部科学省検定済み)「反論を想定して書く」の次の章、「文章を読み取って書く」(リンクで教科書本文のPDF表示)P38~の例文です。
 この例文は、「でたらめ」とまで評するのはちょっとかわいそうかもしれませんが、論理のつながりが悪く、しかも、「確かに~」で取り上げた反論に対して、中途半端な論駁しかできていない点で、やはり読んでいてかなり気持ちが悪いです。

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教科書の小論文例(リンクで縦書きPDF表示)

言語と文化の多様性を

 私は、「それぞれの国や地域の文化の根底にあるのは言語であり、多様な言語と文化を大切にするべきだ。」という筆者の意見に賛成である。日本語がなくなると、具体的で感覚的な日本文化が消えてしまうと考える。
 同じクラスのベトナム人留学生は、「日本の桜はきれいだし、お花見はとても楽しかったが、あんなにすぐ散ってしまうなんてつまらない。」と話していた。これを聞いて、すぐ散ってしまうからこそ、日本人は桜が好きなのだと気づいた。古くから日本人は、桜の季節になると花の様子が気になって毎日桜を眺めて過ごし、初花、三分咲き、花吹雪、花冷えなどといった美しい言葉を生み出してきたのだろう。桜にまつわるこれらの日本語の微妙なニュアンスは、英語には翻訳できないに違いない。
 確かに、言語が統一され、世界中の人が英語だけを話すようになると、便利ではある。通訳や翻訳の必要もなくなり、能率的に物事が進む。言葉が通じないという理由で国内にこもっていた人たちが、広い世界で活躍の舞台を見つけられるかもしれない。そのような点に魅力を感じ、言語統一を推進したいと考える人もいるだろう。
 しかし、国際化とは、すべての国々が同一化することではない。他国の文化を尊重し、自国の文化の独自性を守り育てながら、互いに刺激し合い、向上することなのだと私は考えている。先に触れたベトナム人留学生も、桜にまつわる美しい日本語を知り、これまで知らなかった価値観に触れることで、視野が広がり、真の国際人に一歩近づくに違いない。
 インターネットや交通手段の発達による国際化の進展は必然的なものだが、その潮流の中、すべての人々が同じ言葉を話し、文化が均一化していくのは、人間社会の多様性と豊かさを損ねることにつながってしまう。それぞれの国や地域の独自性と、その根底にある言語がいかに大切なものであるかを、今こそしっかり認識するべきである。

反論に対する自分の評価をきちんと述べる

 「しかし」以降のところで、一生懸命に「すべての人々が同じ言葉を話し、文化が均一化していく」ことの問題点を述べているので、筆者が言語を統一することに反対であることは分かります。しかし、「確かに~」で認めた「言語が統一されることの便利さ」に対して、筆者は何も言っていないために、そのことについてどう捉えているのかははっきりとは分かりません。
 これではある意味、自分の意見を言いっぱなしで、「確かに~」で認めたことについて考慮を払ってはいないのとさして変わらないと言えます。
 ここは、「言語を統一するメリットに比べて、失うものが大きすぎる」というようなコメントをきちんと入れるべきところです。

「言語を統一したい」と主張したくなる状況の把握がない

 上の問題点は、些細な揚げ足取りのように思う人が或いはいるかも知れません。しかし、次の問題は、もっと深刻です。
 「インターネットや交通手段の発達による国際化の進展」が必然的なら、いずれの国にしても、国際化・グローバル化は避けては通れないのではないでしょうか。その時に必要なのは言うまでもなく英語力です。
 そんな流れの中で、日本文化の独自性・豊かさを主張して、「日本語さえ喋れれば、英語教育など尊重しなくてもよい」などと考えてしまったとしたら、日本だけがガラパゴス化して、国際社会から孤立してしまいます。そうならないためには、「自国の文化の独自性を守り育てながら、互いに刺激し合い、向上する」ために、グローバル化にどう対応していくべきか、英語とどう向き合っていくべきかという視点が絶対に必要になってきます。
 「言語を統一しよう」という主張は、そういう国際化の流れの中で出てきているわけですから、このような主張をする人を納得させるためには、筆者が英語教育にどう取り組めば良いと考えているのかについてぜひとも言及しておかなければなりません。

添削例1(リンクで縦書きPDF表示)

言語と文化の多様性を

 私は、「それぞれの国や地域の文化の根底にあるのは言語であり、多様な言語と文化を大切にするべきだ。」という筆者の意見に賛成である。日本語がなくなると、具体的で感覚的な日本文化が消えてしまうと考える。
 同じクラスのベトナム人留学生は、「日本の桜はきれいだし、お花見はとても楽しかったが、あんなにすぐ散ってしまうなんてつまらない。」と話していた。これを聞いて、すぐ散ってしまうからこそ、日本人は桜が好きなのだと気づいた。古くから日本人は、桜の季節になると花の様子が気になって毎日桜を眺めて過ごし、初花、三分咲き、花吹雪、花冷えなどといった美しい言葉を生み出してきたのだろう。桜にまつわるこれらの微妙なニュアンスは、日本語独自の感覚であるに違いない。
 今や、インターネットや交通手段の発達による国際化の進展は必然的なものであり、その潮流の中、国際的に共通理解を図るための英語教育の重要性はますます高まってきている
 だからもし、言語が統一され、世界中の人が英語だけを話すようになれば、確かに便利ではあろうし、通訳や翻訳の必要もなくなるため、一面で、能率的に物事が進むに違いない。もしかしたら、言葉が通じないという理由で国内にこもっていた人たちが、広い世界で活躍の舞台を見つけられるかもしれない。そのような点に魅力を感じ、言語統一を推進したいと考える人もいるだろう。
 しかし、母語である日本語を捨てて、英語に言語を統一しようとする試みは、得るものに対して、失うものが多すぎる。すべての人々が同じ言葉を話し、文化が均一化していくのは、人間社会の多様性と豊かさを損ねることにつながってしまうからである。
 それぞれの国や地域の独自性と、その根底にある母語としての言語がいかに大切なものであるかを今こそしっかり認識し、その上で国際的な共通理解のために英語教育の充実を図っていくことが大切なのではないだろうか。
 国際化とは、すべての国々が同一化することではない。他国の文化を尊重し、自国の文化の独自性を守り育てながら、互いに共通理解を図ることで、刺激し合い、向上することなのだと私は考えている。
 先に触れたベトナム人留学生も、桜にまつわる美しい日本語を知り、これまで知らなかった価値観に触れることで、視野が広がり、多様な視点を持つ真の国際人に一歩近づくに違いない。

教科書もでたらめ4
教科書もでたらめ4  ここで取り上げたのは、前ページで取り上げた大修館の国語表現 改訂版(国表307 平成29年文部科学省検定済み)「反論を想定して書く」の次の章、「文章を読み取って書く」(リンクで教科書本文のPDF表示)P38~の例文で...

元の課題文にも筆者の英語学習に対する姿勢は書かれてはいないが

 実は、元の課題文にも、英語学習に対する姿勢についての筆者の意見が書かれているわけではありません。しかし、元の課題文は筆者の意見を一方的に言いっ放しているだけなのでなので、それがあまり目立ってはいないのです。
 ところが、小論文例の方は、「反論を想定して書く」ために、「確かに~」で、「英語に統一の便利さ」を認めてしまったがために、筆者の英語学習に対する姿勢を書いておかないことには、譲歩した相手に対する無視の態度が、際立って目立ってしまうことになります。
 このように、「確かに~しかし~」を使うには難しさもありますが、それだからこそ、これをきちんと使いこなしたときには、強力な説得力が生まれるのです。

変な型の意識に毒されているぞ

 この小論文例は、「構成メモ」の「なか」の所で、

  1. 自分の意見の理由(具体例としての自分の体験など)
  2. 別の立場の意見の紹介
  3. 別の立場の意見への反論(自分の意見のうちで最も強く述べたいこと)

というような、訳の分からない説明(5段落双括法)がしてあります。
 こんな説明を真に受けると、「①体験②反論③主張」というような構成の型が良いのだと読む方は勘違いをしてしまいます。ですが、こんな説明はナンセンスです。
 何のために体験を書くのか、その目的によって、体験を先に書くのか、自分の意見を先に書くのかは決まってきますし、筆者のどの主張に対して反論を予想するかによって、「確かに~」の位置も変わってきます。それも考えずに、こんな型を指摘して書き方を指導するのは、「イイタイコトを言うために必要な部品を必要な所に置く」という文章道の本質から遠く外れて、生徒を惑わせるだけです。
 この添削例1では、「翻訳は完全なコピーの作成ではない」ことを指摘して表現を少修正するにとどめて、この例のおかしげな捉え方については、添削例2を作る時に、もう一度きちんと考えてみます。

「まとめ」のつもりが「まとめ」にはなっていない

 教科書説明の、「おわり」の所の、

自分の意見を再度述べる

は、この記述自体はさほど問題はありません。そこまでに述べた主張のまとめを書くことは、普通に行われることです。しかし、この小論文例の文章では、ここのまとめの部分が、「これまで述べたことのまとめ」には、実はなっていません。
 これまで問題の核心部分をきちんと把握できないで、周辺を闇雲に撫で回して話を進めていた論点が、ここで初めてきちんとまとめた形で提示されたような恰好です。このような主張の核心部分は、初めにきちんと抑えておくべきで、それをしなから、何かそれらしいことは言っているはずなのに、言いたいことがはっきりとはつかめないぼんやりとした文章になってしまうのです。
 このことを別の言葉で説明すれば、要するに、小論文例の筆者は、まだ自分が書きたいことの核心部分をしっかりと把握しないままにこの文章を書き進めてしまったということです。(文章整理の記事参照)
 「おわり」の所でもし「まとめ」を書くとしたら、それはこのようなものではありません。そこまでの所で、問題の核心部分をきちんと整理して把握しながら述べてきた自分の主張を、手短にまとめて再度提示するようなものになるべきです。
 私の添削では、まとめなどは一切せずに、ベトナム人留学生の具体例で尻切れトンボで終わっているように見えますが、それでも、そこまで述べた主張が、具体例の形で示された形で終わっているので、話の収まりはついているはずです。

翻訳は完全なコピーの作成ではない

 ここまでは触れないでそのままにしておくつもりでいましたが、添削例を完璧な文章だと思われても困るので、やはり「英語には翻訳できない」も問題にしておきましょう。
 「翻訳」は、同じ内容を完全に他言語にコピーすることではありません。言葉というのは、現実をどう切り取って認識するかという「認識の仕方そのものの枠組み」ですから、言語が変われば、似たような意味の言葉ではあっても、微妙な違いは必ずあります。ですから、どの様にうまく翻訳しようと、翻訳は厳密に言えば元の文章とは別物で、翻訳の良し悪しは、元の文章の意味を、どれだけニュアンスまで含めてうまく再現できるかということにかかっているのです。
 「完全なコピー」は元々作れないのが前提なので、「極めて翻訳しにくい」はあっても、「翻訳できない」ことはありえません。現に日本人は、日本語には元々存在しない様々な内容を中国語や西欧から大量に翻訳して、日本文化を作りあげてきたではありませんか。

母語と母国語とは厳密に言えば同じではない

 与えられた課題文自体が混同しているので、この小論文例の傷として取り上げるのは酷かもしれませんが、母語と母国語とは厳密に言えば同じではありません。
 自分が生まれた国や所属している国の言語が母国語であり、これが、幼児期に周囲の大人たち(特に母親)が話すのを聞いて最初に身につけた言語である母語と一致しないケースは当然考えられます。
 この違いは結構重要なので、きちんと把握しておきましょう 

800字程度でという問題

 この課題は、「800字程度で」という問題です。元の解答例が、820字、添削例1は1,040字ほどになっています。添削例1は、論理の筋道はおおよそ整えましたが、まだまだ冗長な部分が残っていて荒削りです。
 本来は、その荒削りな部分を削ぎ落として、800字程度にまとめていくという作業が、これからの添削課題としてまだ残っています。
 私の添削例を見る前に、一度ご自身で800字に添削してみてくださいね。書かれている内容を保ったまま表現をスリム化することも、案外難しいですよ。
<添削例2 800字>(リンクで縦書きPDF表示)>

言語と文化の多様性を

 私は、「それぞれの国や地域の文化の根底にあるのは言語であり、多様な言語と文化を大切にするべきだ。」という筆者の意見に賛成である。
 同じクラスのベトナム人留学生は、「日本の桜はきれいだし、お花見はとても楽しかったが、あんなにすぐ散ってしまうなんてつまらない。」と話していた。これを聞いて、すぐ散ってしまうからこそ、日本人は桜が好きなのだと気づいた。古くから日本人は、桜の季節になると花の様子が気になって毎日桜を眺めて過ごし、初花、三分咲き、花吹雪、花冷えなどといった美しい言葉を生み出してきた。しかし、日本語をもし捨ててしまうようなことになれば、この具体的で感覚的な日本独自の文化は消えてしまうに違いない。
 今や、インターネットや交通手段の発達による国際化の進展は必然的なものであり、その潮流の中、国際的に共通理解を図るための英語教育はますます重要になってきている。
 だからもし、言語が統一され、世界中の人が英語だけを話すようになれば、通訳や翻訳の必要もなくなるため確かに便利ではあろうし、広い世界での交流は今以上にし易くなるかもしれない。
 しかし、母語である日本語を捨てて、英語に言語を統一しようとする試みは無謀である。それは、文化の均一化を招き、ひいては人間社会の多様性と豊かさとを損ねることになってしまうからである。
 国際化とは、すべての国々が同一化することではない。自国の文化の独自性とそれを支える母語を守り育てながら、一方で共通理解を図るための英語教育も充実させて、違う文化の国同士、互いに尊重し、刺激し合って向上していくことなのだと私は考えている。
 先のベトナム人留学生も、これまで知らなかった桜にまつわる美しい日本語の価値観に触れることで、視野が広がり、多様な視点を持つ真の国際人に一歩近づくに違いない。 

何を説明するための具体例か

 添削例1の様に修正しても、ベトナム人留学生の例で「日本文化の独自性」を述べているに過ぎないので、それが前の「日本語がなくなると、具体的で感覚的な日本文化が消えてしまうと考える。」とどうつながっているのか、筆者自身の言葉で明言されているわけではありません。そのお陰で、後ろとのつながりもぼんやりしたものになってしまっています。
 見ての通り添削例2では、課題文の筆者の意見に賛同する論拠として、「日本語がなくなると、具体的で感覚的な日本文化が消えてしまう」自分独自の具体例としてこの例を取り上げた体裁になっています。
 この事によって、まず自分独自の例をあげながら、課題文の筆者の意見をトレースして賛同し、それ以降のところで、英語教育の必要性にも触れながら、「母語」「国際化」といった自分独自の視点を交えて更に詳しく自分の意見を展開するという、極めて効果的な論理展開の仕方になりました。

論理展開の流れを素直に納得できる文章を目指す

 ここで取り上げた例文は、生徒らしき名前が原稿用紙に書いてはありますが、明らかに大人が書いた文章です。大人が書いた文章、特に、作文や社会の先生が書いた文章は、生徒のとは違って、さすがに文章を書くための素材はしっかり持っています。ですから、それを添削する場合、ずたずたな思考の論理の流れに、きちんと筋道を付けてやるだけで、生徒にはとても書けないような、すばらしい模範解答になります。
 ここで添削した例文が正にそれでした。このような添削を通して、「思考の論理の流れ」をしっかり作るためのやり方・発想法を学んでほしいと思います。
 生徒の作文の場合は、素材を考え、見つけさせる作業と、それに論理の道筋をつけさせる作業とをハイブリッドでやらなければならないため、添削はかなり大変です。
 私が提供する添削例が勢い大人が書いたものになりがちなのも、そういう事情によります。

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