「確かに~しかし~」理解2

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「確かに~しかし~」理解の困難さ2

 「小論文 確かに」で検索をかけてみると、樋口式への批判はかなり多いのですが、その批判自体が的はずれであることが多いです。

「型の否定」派

 第一は、「確かに~しかし~」の型を使うと、それだけで採点官が「またか!」と思ってうんざりするとか、「確かに」だけでなく、型そのものを嫌う毛嫌い派とか。
 「確かに~しかし~」に対する嫌悪感については、先に説明しました。
 型そのものに対する嫌悪感については、、この頁の最後に改めて考えることにします。

「反論の評価」の捉え方がおかしい

 樋口式を批判しながら、それが的外れになってしまっている第二は、「確かに~しかし~」は、「予想される反論を少しだけ書いて、次に自説をたくさん続けて書く」だけでは駄目で、「書いた予想される反論に対して、それを認めてもなお自説が優位になるように、何らかの評価を付け加えておかなければならない。」というように、「反論の評価が必要」という認識を持っているのに、その評価の仕方が、やっぱりおかしい書き方しかできていない場合です。
 私が『ねこの小論文・作文講義』を書いた平成16年の頃には、「反論の評価が必要」というようなことを言う人はいなかったので、最近はこのことを認識してくれた人も増えてきているという面では、作文教育が少しはまともな方向に動いてきています。
 しかしまだまだ、その「反論の評価」に対する考え方がおかしい場合も多いのが現実です。
 例えば、下の例文は、別のところで、「確かに~」で「認めた反論に対して、それが自分の主張したいことほど重要ではない旨の反論を試みてから、自説を展開しなければならない」と書いている筆者(作文の先生)が書いた文章です。
<例文1>

小論文の「型」について考える

巷で流行している小論文の書き方には小論文の「型」を強調しているものが多く見られます。

たしかに……しかし……

という形です(譲歩逆接構文と呼ばれることもあります)。

たしかに・・・・この型には有効な部分があります。構成が決まっていた方が書きやすい生徒もいるでしょうし、小論文に十分学習時間を割けない人にも手軽に使えるものです。
しかし・・・大きな弱点が二つあります。一つは型にとらわれるあまり思考が窮屈になること。そしてもう一つがとても重要なのです。
そのもう一つとは……
型があったところで、その型に当てはめる内容を考えなければ小論文を書くことはできない
ということ。

したがって、型を使おうか使うまいが、小論文では「書く前に考える」ことがどうしても必要なのです。

例文1の考察 前からのつながり

 この文章の問題点は、前後のつながりの両方面から考えることができます。
 まず、前から考えていくと、「確かに」以下で述べられることは、自分とは反対の立場からの意見、または、自説に対する反論の論拠であるはずだという点です。
 ですから、この文章の主張は、「型の有用性」に対して、「『確かに〜しかし〜』の使用を控えよう」または、「気をつけよう」という様なものにならなければなりません。
 ところが、この文章が実際にたどり着く主張は、そのような言及は一切なしに、いきなり「型を使おうが使うまいが、小論文では『書く前に考える』ことが必要」だということですから、論理展開に無理があります。

例文1の考察 後ろへのつながり

 後ろへのつながりを考えると、型の有用性を説いた後、「しかし」の段落で「型の欠点」を指摘するのなら、それ以降のところは、「型の欠点」を克服できる何か、が自説に含まれていなければ、何のために型の欠点を指摘するのか、意味が分からなくなります。
 ここで書かれた欠点のうち、「型を使おうが使うまいが、小論文では『書く前に考える』ことが必要」だということに対しては、克服法を考えることができるでしょうか。このような欠点の克服法も示せないような問題をあげつらってみても、論の筋道が通るはずがありません。
 もう一つの、「この型にとらわれるあまり思考が窮屈になる」ということについては、「型を使おうが使うまいが、小論文では『書く前に考える』ことが必要」だと主張することが克服法になっています。
 視点を変えて、「型があったところで、その型に当てはめる内容を考えなければ小論文を書くことはできない」ということを別の方面から考えてみましょう。これは、果たして「確かに」の型の欠点だと言えるのでしょうか。「型があっても無くても内容を考えなければ小論文を書くことはできない」のですから、これはそもそも、「確かに」の型の欠点ですらなかったのです。

「型があったところで~」を活かす書き方

 今の文脈の中では、「型があったところで、その型に当てはめる内容を考えなければ小論文を書くことはできない」は妙な位置づけになっているので、今度は逆に、この発想を「確かに~しかし~」の中で活かすための文脈にするにはどうすればよいのか、を考えてみましょう。
 もしそのような文脈を作るとすれば、「型があったところで、その型に当てはめる内容を考えなければ小論文を書くことはできない」のだから、型を使ったところで、さほど作文を書く作業が楽になるわけでもないし、時間の短縮にもなりはしない、というような流れでしょうか。
 しかし、このような方向に文章を持っていきたいのなら、「確かに~」のところで、現状のように、型の有効性を素直に認めてしまってはダメで、「確かに、この型を使うことで構成が決まっていた方が書きやすいと思う生徒もいるでしょうし、小論文を書くのに時間が短縮できると考える生徒がいるかも知れません。」というような書き方で、「そう思うのは、気のせいよ」というニュアンスを匂わしておかなければなりません。
 そしてそこまで文章を変えても、「さほど作文を書く作業が楽になるわけでもないし、時間の短縮にもなりはしない」だけでは、「自説の方はあまり不利ではない」と言っているにすぎないので、さらに、自説の有利さを別の観点から指摘して、反論に対する反撃を補強しておく必要があります。
 以下、上の分析を踏まえて、素材をなるべく活かしながら、無理のない論理展開ができるように例文を書き改めてみます。

例文1の添削例

<例文1改>

 巷で流行している小論文の書き方には、「確かに~しかし~」を使った小論文の「型」を強調しているものが多く見られます。
 確かに、この型を使うことで構成が決まっていた方が書きやすいと思う生徒もいるでしょうし、小論文を書くのに時間が短縮できると考える生徒もいるかも知れません。
 しかし、この型を使ったところで、その型に当てはめるように内容を考えなければ小論文を書くことはできないのですから、さほど作文を書く作業が楽になるわけでもありませんし、時間の短縮になるわけでもありません。
 むしろ、この型を安易に導入しようとすると、「型にとらわれるあまり思考が窮屈になる」という重大な問題点も生じてきます。
 ですから(したがって)、何でもかんでもこの型にはめて文章を書こうという姿勢は警戒して、この型を使おうが使うまいが、「書く前に自由に考えてみる」ということが小論文ではどうしても必要です。

頭痛がしてくる文章

 樋口式の「確かに~しかし~」を使った文章にしろ、上の<例文1>にしろ、何か部品は色々と揃えられているけれども、文章を素直に読める流れになってはいないので、このような文章を読まされると、頭痛がしてきます。
 そして、このような文章を書く人に、「このようなことを書いてみたら」と助言すると、「それはここに書いてある」と返されます。見てみると、なるほど、確かにそれらしいことは書いてあるのだけれど、それは文章のはるか先の別のところで、文脈のつながりなどありはしません。
 そのような人たちに、型やら何やら、「イイタイコト」を伝えるということ以外の要素は一切顧みないで、「『イイタイコト』を伝えることに専念する」と教えることは並大抵のことではありません。
 ちょっと考えると、さほど難しそうには思えない「確かに~しかし~」の使い方でさえ、これ程教える側の人間でも混乱しているのですから、「イイタイコト」を大切にした小論文・作文指導が世間で広まるためにはどうすればよいか、なかなか難しい問題です。

型に対する警戒心

 (「『確かに~しかし~』理解1」で紹介したように、確かに、)型を使うことへの懸念を示す人も少なくないかもしれません。しかし、型は元来、「イイタイコト」を有効に表現するために考案されたものなのですから、型自体が悪者なはずはありません。
 悪いのは、その型の正しい使い方を知らずに、誤って変な使い方をすることであり、何でもかんでもワンパターンな型に当てはめようとして、型の有効な使い道を考えない人の方です。
 ですから、自分の「イイタイコト」に対して、どのような材料を選び、どのような表現を選ぶべきかを考えて、もし必要ならそれに適した型を使うのに、何の問題もありません。
 「型にとらわれるあまり思考が窮屈になる」と主張する人には、「型の有効性はあるのだから使ってもいいけれど、ある特定の型だけにとらわれないように、思考を自由にしておこうね」と言っておけば済むのではないでしょうか。

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