比較的まともな使い方の例

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比較的まともな使い方の例

 『教科書もでたらめ』以下で、大修館の国語表現 改訂版(国表307 平成29年文部科学省検定済み)のよろしくない例文ばかりを取り上げてきたので、ここでは、この教科書の、「確かに~しかし~」を使った比較的まともな例文も紹介しておくことにします。
 教科書記載(PDFへリンク)のままでも、論理展開が大きく破綻しているような箇所もなく、問題意識の点でも深い内容になっているので、「確かに~しかし~」の使い方の一つの見本にはなるかと思います。
 ただ、思考整理の面では、以下の2つの面でこの文章でもまだ気になる箇所はありますので、それを後半で考えます。

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教科書の小論文例(リンクで縦書きPDF表示)

法律

 国家には法律があり、国民は法律を遵守して生活しなければならない。もし法律を破れば罰せられる。このようなことから、法律には人の自由を束縛するというイメージがあるかもしれない。だが、法律は、人が自由に活動するために必要不可欠で、大切にしなければならないものである。
 仮に、法律がない社会を想定してみる。そこでは何をしても罰せられない。他人の物を盗んでも、他人を傷つけても許される。それはすなわち、私の物が盗まれ、私の身体が傷つけられても文句は言えないということを意味する。そのような無法地帯にはとても住むことができない。私たちは法律によって守られている。法律があるからこそ、私たちは安心して生活し、自由に行動できるのだ。
 たしかに、法律には、人は悪いことをするという前提に立って人を縛る面がある。そうではなく、良心に訴え、真心をもって人に接することで、自ら率先してよい行動をするように促すことが大切だという考え方もあるだろう。人の善意に訴えかけ、法律による束縛や罰則はできるかぎり減らすべきだという考えも理解できる。放置自転車をなくすために、罰金を取るのではなく、目の不自由な人の難儀や、救急車が通れないための悲劇を想像しようと訴えることも考えられる。
 しかし、そのような訴えだけでは放置自転車はなくならず、多くの地区で罰金制度を用いているのが現状なのである。私たちの財産や生命も、人の善意に期待しているだけで守れるとは思えない。残念なことだが、それは、おきてを作り、おきて破りには刑を処す社会を作ってきた人類の歴史が証明している。
 私たちは、人の善なる部分を育てるという姿勢を忘れてはならない。それと同時に、私たちの財産や生命を守り、自由な行動を保障してくれるものとして法律の意義をしっかり認識し、法律を大切にしたいと私は考えるのである。

反論に対する自分の評価がきちんとある

 上の例文では、黄色でマーカーした部分のように、「確かに」で認めた反論だけでは不十分なことをきちんと主張し、更に、反論のような姿勢も尊重する必要がある旨をきちんとフォローしているので、反対意見の人に対しても、十分な説得力があります。
 「確かに~しかし~」の使い方として、さほど違和感を感じさせないレベルにまで仕上がっていて、独自の思考の深まりもあるので、まあ良い文章だと思います。これまで使ってきた私の採点基準で言えば、78点くらいあげてもよいのではないでしょうか。

よくよく見るとまだ捉え方が少し違うのかも

 この例文は、褒め殺しで終わっておこうと当初は思っていたのですが、このページを作るにあたってよくよく見ていると、気になる点も無いわけではありません。
 その1つ目は、これまでのこの教科書で使われた「確かに~しかし~」の使い方()を見ていると、この教科書の編者は、「『確かに』で始まった段落全体に、『確かに』という言葉が及んでいる」と考えている節があるという点です。もちろん

 確かに、①。②。③。
 しかし、~

と並列に①②③を並べていくことで、「確かに~」の段落全体に「確かに」という言葉を及ぼしていくことも出来ないことはありません。しかし、普通の場合、よほど配慮して文章を書かないと、「確かに」以降、文章が様々につながっていく時に、始まりの「確かに」という言葉を、この段落の最後まで、掛からせながら読んでいかせるということには相当な無理があります。
 この文章では、

  • 法律には、人は悪いことをするという前提に立って人を縛る面がある。
  • 良心に訴え、真心をもって人に接することで、自ら率先してよい行動をするように促すことが大切だという考え方もあるだろう。
  • 人の善意に訴えかけ、法律による束縛や罰則はできるかぎり減らすべきだという考えも理解できる。
  • 放置自転車をなくすために、罰金を取るのではなく、目の不自由な人の難儀や、救急車が通れないための悲劇を想像しようと訴えることも考えられる。

の4つの文章が含まれています。筆者はこれらの関係を考えずに並列に並べて、「確かに~」を全体に掛からせて論じているつもりでしょうが、しかしやはり、これらは並列の関係で横並びになっているわけではありません。
 筆者の、「法律があるからこそ、私たちは安心して生活し、自由に行動できる」という主張に対して起こりそうな反論は、「法律には、人は悪いことをするという前提に立って人を縛る面がある。」という考えです。その考えに立つとどのような論理になっていくか。それが、「人の善意に訴えかけ、法律による束縛や罰則はできるかぎり減らすべきだ」という主張であり、そのためには、「良心に訴え、真心をもって人に接することで、自ら率先してよい行動をするように促」したり、「放置自転車をなくすために、罰金を取るのではなく、目の不自由な人の難儀や、救急車が通れないための悲劇を想像しようと訴え」たりすることが大切だ」ということなのです。
 「確かに~」の段落の流れをこの様に考えれば、「確かに」の言葉が掛かっているのは、「法律には、人は悪いことをするという前提に立って人を縛る面がある。」の部分だけになります。
 この教科書編纂者が意図しているように、ある言葉を、段落全体に及ぼすような書き方は特殊で、その様に意識して特別な構造にしないかぎり、この様な無造作な文章を書いて簡単にできるものではありません。

小論文添削例1(リンクで縦書きPDF表示)

法律

 国家には法律があり、国民は法律を遵守して生活しなければならない。もし法律を破れば罰せられる。このようなことから、法律には人の自由を束縛するというイメージがあるかもしれない。だが、法律は、人が自由に活動するために必要不可欠で、大切にしなければならないものである。
 仮に、法律がない社会を想定してみる。そこでは何をしても罰せられない。他人の物を盗んでも、他人を傷つけても許される。それはすなわち、私の物が盗まれ、私の身体が傷つけられても文句は言えないということを意味する。そのような無法地帯にはとても住むことができない。私たちは法律によって守られている。法律があるからこそ、私たちは安心して生活し、自由に行動できるのだ。
 たしかに、法律には、人は悪いことをするという前提に立って人を縛る面がある。だから、人の善意に訴えかけ、法律による束縛や罰則はできるかぎり減らすに越したことはない。そのためには、良心に訴え、真心をもって人に接することで、自ら率先してよい行動をするように促すことも大切であるし、放置自転車をなくすために、罰金を取るのではなく、目の不自由な人の難儀や、救急車が通れないための悲劇を想像しようと訴えることも考えられる。
 しかし、そのような訴えだけでは放置自転車はなくならず、多くの地区で罰金制度を用いているのが現状なのである。私たちの財産や生命も、人の善意に期待しているだけで守れるとは思えない。残念なことだが、それは、おきてを作り、おきて破りには刑を処す社会を作ってきた人類の歴史が証明している。
 私たちは、人の善なる部分を育てるという姿勢を忘れてはならない。それと同時に、私たちの財産や生命を守り、自由な行動を保障してくれるものとして法律の意義をしっかり認識し、法律を大切にしたいと私は考えるのである。

必ずしも反対意見に迎合しておけばよいわけではない

 私の先の説明では、「更に、反論のような姿勢も尊重する必要がある旨をきちんとフォローしているので」良いというような言い方をしました。この説明で恐ろしいのは、自説の主張をまとめていく時に、何でもかんでも反対意見に迎合した意見も付け加えておけば、「確かに~」を踏まえたよい論理展開になっていると受け取られてしまうことです。
 このような予想される反対の立場の主張を自説の前提として認めてしまうような言い方をして、その表現が生きてくるのか、いらぬ付け足しになってしまうのかは、言うまでもなく、そこまでの所でどのような論の展開がされてきたのかによります。
 元の小論文例では、「確かに~」の所の思考整理がうまく出来てはいないので、「人の善なる部分を育てるという姿勢を忘れてはならない」という結論部分が、少しは働いているとはいえ、ちょっと取ってつけたような感があるのは否めません。
 添削例の方は、その前の段落で、「人の善意に訴えかけ、法律による束縛や罰則はできるかぎり減らすに越したことはない。」ときちんと抑えてあるので、法律で人々を縛るより先に、「人の善なる部分を育てるという姿勢を忘れてはならない」のは当然の前提ですよと主張することが、「確かに~」の段を受けた自然な流れの中でできているので、より効果的な主張になっています。

5段落双括法の構成がおかしい

 2つ目に気になる点は、この教科書編纂者が推奨する5段落双括法の構成が、やはりおかしいという点です。この文章を普通に読んだぐらいでは、なかなかどこがおかしいのか見えにくいです。しかし、編纂者の5段落双括法の説明を読み、この教科書のこの構成による文章の不自然さに読み慣れてくると、やはりこの構成法がこの文章でも悪く作用しているのに気が付きます。
 3段落目の、「確かに~」以下書かれていることは、1段落目に「法律には人の自由を束縛するというイメージがある」と書いていることの関連から出てくる発想です。実はこの文章は、1段落目に予想される反論を既に組み込みながら文章を展開する特殊な構成になっているのです。ですから、「関連の発想をばらばらにせずに、まとめて分かりやすく論じるべきだ」という考え方からすると、この文章もまた、1段落と3段落とが本当はつながって論じられなければならないのに、2段落目の「もし法律がなかったら~」という異質な話が途中で脈絡なく挟まり込んでいることが分かります。
 この構成の違和感を感じられにくくしているのは、2段落目の終わりが、1段落目の主張と同じ「法律があるからこそ、私たちは安心して生活し、自由に行動できる」のようなものであるので、「しかし~」はこの主張を受けて反論を予想しているのだと錯覚してしまえるからです。

小論文添削例2(リンクで縦書きPDF表示)

法律

 国家には法律があり、国民は法律を遵守して生活しなければならない。もし法律を破れば罰せられる。このようなことから、法律には人の自由を束縛するものだというイメージがつきまとう。だが、法律は、実は人が自由に活動するために必要不可欠で、大切にしなければならないものなのだ
 たしかに、法律には、人は悪いことをするという前提に立って人を縛る面がある。だから、人の善意に訴えかけ、法律による束縛や罰則はできるかぎり減らすに越したことはない。そのためには、良心に訴え、真心をもって人に接することで、自ら率先してよい行動をするように促すことも大切であるし、放置自転車をなくすために、罰金を取るのではなく、目の不自由な人の難儀や、救急車が通れないための悲劇を想像しようと訴えることも考えられる。
 しかし、そのような訴えだけでは放置自転車はなくならず、多くの地区で罰金制度を用いているのが現状なのである。私たちの財産や生命も、人の善意に期待しているだけで守れるとは思えない。残念なことだが、それは、おきてを作り、おきて破りには刑を処す社会を作ってきた人類の歴史が証明している。
 仮に、法律がない社会を想定してみる。そこでは何をしても罰せられない。他人の物を盗んでも、他人を傷つけても許される。それはすなわち、私の物が盗まれ、私の身体が傷つけられても文句は言えないということを意味する。そのような無法地帯にはとても住むことができない。私たちは法律によって守られている。法律があるからこそ、私たちは安心して生活し、自由に行動できるのだ。
 私たちは、人の善なる部分を育てるという姿勢を忘れてはならない。それと同時に、私たちの財産や生命を守り、自由な行動を保障してくれるものとして法律の意義をしっかり認識し、法律を大切にしたいと私は考えるのである。

未整理の思考を整えると文章が断然良くなる

 上の添削例1は、3段落の部品のつながりをマーカー部分できちんとさせただけ。添削例2は、添削例1から、マーカー部分の小修正と、2段落を4段落の後に移動させただけです。
 上の教科書の例文のままでも、ざっと読んでしまうとかなり高い点を付けても良いような気分になってしまいますが、推敲例と見比べてみると、部品は同じでちょこちょこっと表現を変えているだけなのに、やはり後の文章になるほど圧倒的に良くなっていくのが分かります。
 表現自体の変更は少しでも、これは思考整理を反映させた「質の変化」であり、表現された内容は大きく異なります。世間一般の添削のイメージの、「ただ美しい表現に変えてみただけ」というような「量の変化」とは本質的に違うことを実感してください。
 こういう思考整理の積み重ねが、文章を書くための極意なのです。

 

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