「確かに~しかし~」使用法

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「確かに~しかし~」の使用法

 前頁では、ちょっとした問題意識のある文章を書こうとすると、「確かに」とか「しかし」とかいう言葉そのものを使うかどうかは別として、どうしても「確かに~しかし~」のような論理構成の文章が口をついてどこかに出てきてしまうものなのだということと、「確かに~しかし~」は、本来、文章構成を決定づける型のような大層なものではなく、「反論に対する評価」をしながら自説を展開する場面では、結構頻繁に文章構成のパーツとして利用される部品にすぎないものであるということを説明しました。この頁では、それらのことを踏まえた上で、「確かに~しかし~」の使い方を、もう少し詳しく見ておきたいと思います。

これまでの説明は中途半端だった

 これまで私は、「確かに~」のところで、予想される反論を書き、「しかし」以降で、「確かに~」のところで認めた反論に言及しながら、それが自説を妨げる主張にはなりえないことや、それよりもなおもっと自説のほうが重要であることを示すことで、自説の説得力を増すのが、「確かに~しかし~」を使った表現だというような説明をしてきました。
 しかし、このような説明は、もう少し中途半端だったので、ここでは、この表現の二つのパターンに触れながら、もう少し詳しく見ておくことにします。
 なお、私のこれまでの説明が中途半端になってしまっていた理由は、樋口氏が説く「確かに~しかし~」の第2パターンを使った表現を意識しすぎて、「確かに~しかし~」の第1パターンを見逃していたことでした。

 

「確かに~しかし~」の二つのパターン

 「確かに~しかし~」の表現を構成する要素は、次の三つのパートに分けることができます。

  1. 「確かに」の直前のパート
  2. 「確かに」以下のパート
  3. 「しかし」以下のパート

 ここで重要なことは、1.の「確かに」の直前のパートに書かれることは、実は二つの場合があるということです。
 一つは、「自説とは反対の立場・主張」が来る場合、もう一つは、「自分の主張」が来る場合です。
 一つめのパターン(以下第1パターンと呼ぶ)、つまり、「自説とは反対の立場・主張」が来る場合は、次のような文章になります。
<パターン1>

 日本の多くの高校では、今でもなお制服が定められていて、私服通学などは認められてはいない。
 確かに、制服があればどのような服装で登校するべきかという管理は楽かもしれない。
 しかし、高校は本来、「社会で自分の意志を持って生きていく若者を育てる場」である。安易に「管理のしやすさ」を追求するために、学校本来の使命を果たせないのでは本末転倒である。
 だから、私は高校では制服を決めるべきではないと思う。

 二つめのパターン(以下第2パターンと呼ぶ)、つまり、「自分の主張」が来る場合は、次のような文章になります。
<パターン2>

 私は高校に制服は不要だと思う。
 確かに、日本の多くの高校では、今でもなお制服が定められていて、私服通学などは認められてはいないし、実際制服が無いと、どのような服装で登校するべきかという管理は大変かもしれない。
 しかし、高校は本来、「社会で自分の意志を持って生きていく若者を育てる場」である。安易に「管理のしやすさ」を追求するために、学校本来の使命を果たせないのでは本末転倒である。
 だから、私は高校では制服を決めるべきではないと思う。

 このパターンは、前の「自分の主張」と、「確かに~」との間に、「この(私の)意見には反対の人も多いかもしれない。」というような意味(一文)が明示的に書かれること無く省略されていると考えれば、分かりやすいかもしれません。

「確かに~」で認めた反対意見の評価は絶対に必要

 「確かに~しかし~」を使った表現には二つのパターンがあるとはいえ、本質的には同じです。これまで幾度も述べてきたとおり、「確かに~」で認めた反対意見の評価は絶対に必要です。
 「確かに~」の所で反対意見の論拠を認めてしまうわけですから、樋口裕一氏のように、それに論駁(ろんばく)すること無く、「しかし」以降で自説を展開してしまうと、「あなたは反対意見の主張を認めたはずなのに、その主張を無視して自説をゴリ押しするのか」という批判を免れることはできません。
 「確かに一理ある」と認めた反対意見に対して、「しかし」以降で、「その理由よりも私の理由の方がより重要だ」とか、「その意見を認めても、私の主張を妨げることにはならない」とかいうような評価をきちんと下すことで、「反論を封じ込めながら自説を展開する」という「確かに~しかし~」の持つ本来の威力が発揮されることは、きちんと把握しておかなければなりません。
 次に、樋口式の、自説をゴリ押しするだめな例をあげておきます。上の二つの例文と見比べて、そのダメさ加減を確認してください。
<樋口式の反論評価がないダメな例文>

 私は高校に制服は不要だと思う。
 確かに、日本の多くの高校では、今でもなお制服が定められていて、私服通学などは認められてはいない。
 しかし、制服がなければ高価な制服を買う必要もなくなるし、何より学校で自由なファッションが楽しめる。それによって、画一化されたモノトーンの学校生活が輝きを増すことは間違いない。高校生活は、そこに生活する高校生が生き生きと生活できてこそ意味があるものになる。
 だから、私は高校では制服を決めるべきではないと思う。

 上の例文では、「しかし~」のところが、「確かに~」のところよりも長くなるように、「確かに~」の記述を少なめにして、逆に、「確かに~」の内容に全く触れないまま、とうとうと自説を補強する理由を述べたててみました。
 樋口氏自身が作る例文もそうですし、樋口式を信奉してしまうと、こんなどうしようもない文章を量産してしまうので、もう一度「確かに~しかし~」の本来の強力な使い方と見比べて確認しておいてください。
 <パターン2>の文章では、「確かに~」のところと、「しかし~」のところの記述量はさほど変わりません。しかし、「確かに~」できちんと反論を封じ込めた自説の展開ができているはずです。樋口氏が説くように、ただ単に、記述量の多さだけが説得力の決め手ではないことがよく分かると思います。

例文をうまく作りすぎると

 例えば、「確かに~しかし~」を使うのをやめて、一方的に自説を展開した文章を作ると次のようになります。
 この例文は、上の<樋口式の反論評価がないダメな例文>から、「確かに~」の段落を削除してしまっただけの文章です。
<一方的に自説を展開>

 私は高校に制服は不要だと思う。
 制服がなければ高価な制服を買う必要もなくなるし、何より学校で自由なファッションが楽しめる。それによって、画一化されたモノトーンの学校生活が輝きを増すことは間違いない。高校生活は、そこに生活する高校生が生き生きと生活できてこそ意味があるものになる。
 だから、私は高校では制服を決めるべきではないと思う。

 この文章でも、「自説の展開」部分がしっかり書けているため、ある程度説得力があります。ですから上の<樋口式の反論評価がないダメな例文>を読んでも、違和感を感じない人もいるかも知れません。
 しかし、<樋口式のダメな例文>では、「日本の多くの高校では、今でもなお制服が定められていて、私服通学などは認められてはいない。」根拠について、筆者が正面から反論を企てる気がないのは明白です。
 「日本多くの高校で制服が定められている」のには、それなりの理由があるはずです。それなのに、その根拠に対して、反論を一切することなく好き勝手な自己主張を展開しても、「何も問題の本質を分かってはいないくせに、好き勝手を言うな」という反感を抱かせるだけです。
 このような文章になってしまうと、「確かに~」を使って無駄に反論に譲歩しただけ、反対に、反論に対しての配慮が足りないことを暴露してしまう結果になってしまいます。
 「文章を構成する全ての部品が『イイタイコト』を言うための部品になっている」という観点から見たら、このような記述は、無意味でかつ有害な飾りでしかありません。そんなものを良いと考えて無自覚に付け加えてしまえる迷妄に比べたら、上の<一方的に自説を展開>の方が、遥かに健全な発想の文章であると言えます。
 下の<きちんとした反論評価がある場合>と、比較してみてください。
<きちんとした反論評価がある場合>

 私は高校に制服は不要だと思う。
 確かに、日本の多くの高校では、今でもなお制服が定められていて、私服通学などは認められてはいない。
 しかし、それは学校の古いイメージや習慣にいまだに縛られているからにすぎない。制服がなければ高価な制服を買う必要もなくなるし、何より学校で自由なファッションが楽しめる。それによって、画一化されたモノトーンの学校生活が輝きを増すことは間違いない。高校生活は、そこに生活する高校生が生き生きと生活できてこそ意味があるものになる。
 だから、私は高校では制服を決めるべきではないと思う。

 この様に、きちんとした反論評価を加えることで、自説を一方的に展開するだけでは得られない説得力が生まれるのです。

発展段階としても絶対に認められない

 「反論評価のない『確かに〜しかし〜』でも、自己主張を一方的にするよりはましで、反論評価の整った文章を書く成長段階の一コマとしては評価できるのではないか」という質問を受けたことがあります。
 しかし、反論評価のない文章を書く人には、「『確かに〜』の部分をなぜ書かなければならないのか」の意識が全然無くて、自分の論旨(「イイタイコト」)を述べるのに全く意味のないものを付け加えて平気で居られるという悪弊があります。
 このような無意識は、言うまでもなくなく、文章を推敲する上での一番の大敵です。それに較べたら、自説を一方的に述べ立てるのなど、自分が言おうとしていることには忠実な分、まだ笑って許すことができます。
 

反論評価のおかしな場合

 「確かに~しかし~」の正しい使い方を理解したところで、次頁で、「反論評価のおかしな場合」について見ていくことにします。

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