樋口の模範解答文検証

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樋口の模範解答文検証

 前頁で取り上げた樋口氏の模範解答文は、論理的にズタボロで、こんなものは見たくも考えたくもありませんが、引用してしまったので、一応検証してみることにします。
 前頁で説明した段落構成の不具合の説明は、ここでは繰り返しません。

 どこをどう直せばまともな文章になるか、あなたも一度、私の文章を読む前に考えてみてくださいね。

樋口氏による四段落構成の模範解答文(リンクで縦書きPDF表示)

 「ゆとり教育」が問題になっている。しばらく前から、日本の学校では、かつての受験競争が否定されて、学習内容を減らすなどして子供たちの負担を減らす「ゆとり重視の教育」が行われてきた。では、そのようなゆとり教育は正しいのだろうか。
 確かに、ゆとり教育のおかげげで、生徒たちは受験による抑圧から解放されて、自由に生きられるようになった面はある。受験競争が激しかったころ、子供たちは圧迫に苦しみ、意味のない競争に明け暮れなければならなかった。そして、そこから脱落したものは「落ちこぼれ」として、差別的な扱いを受けた。それに比べれば、勉強や競争を強いない現在のゆとり教育は好ましいと言えるだろう。しかし、ゆとり教育は、大きな問題を抱えているのである。
 ゆとり教育の大きな問題として、大学に入っても専門科目の勉強についていけないほどの学力不足がしばしば挙げられ、技術立国としての日本の将来が危ぶまれている。そして、それ以上に問題なのは、学習内容が減ったため、若者は競争意識を失い、生活にハリをなくしていることである。かつて、若者は他人との競争の中で自分の能力やその限界を知り、自分の個性やアイデンティティを発見していた。だが、現在の若者にはそうした機会が失われている。しかも、学問を重視しないために、若者は知的なもの、難解なものへの敬意を失い、努力を怠る。そのため、若者はいつまでも自己確立ができず、刹那的にその時々の快楽を追いかける。努力した上で、自分を作り上げていくという意識を持たない。そのあげくの果てが、都市の歓楽街にたむろし、夜中まで遊び歩く若者の姿なのである。
 私は、ゆとり教育が学力低下だけでなく、若者の意欲の低下をもたらし、自己確立を妨げていると考える。その意味で、ゆとり教育に反対である。
『ホンモノの文章力 -自分を売り込む技術-』 P49~

反論に対する論駁は当然無い

 「ゆとり教育」は、学力偏重教育による競争の激化や、学習の大変さが問題になってきて、それを軽減させるために行われるようになったものです。その成果を認めたのに、その成果については一切言及することなく、競争が無くなった結果、「努力する姿勢が失われた」のが問題なので、競争を再度導入しろ、では、「ゆとり教育」を導入するきっかけになった、学力偏重教育による競争の激化や、学習の大変さがまた蘇ってくるだけなので、問題は一向に解決せず、堂々巡りです。これでは全く議論になってはいません。
 少なくとも、こういう論理展開をするなら、「ゆとり」を取るのか、「競争」を取るのか、その両方の是非を天秤にかけて、どちらにするのかを決める議論をしなければなりません。それを全くしないで、ゆとり教育の問題点ばかりをあげつらってみても、説得力は全くありません。
 まして、筆者が主張している望ましい競争とは、「確かに」の所で認めてしまった「意味のない競争」です。その競争に勝つための競争心など、本当に社会のために必要なのでしょうか。全く怪しい話だと言わざるを得ません。

「ゆとり」の成果と問題点を検証する

 「ゆとり教育」か、「学力偏重教育」か、といった二者択一の不毛な議論をせずに、もっとまともな議論を展開したいなら、「ゆとり教育」が目指した所と、その成果、そしてその問題点を検証して、従来の「学力偏重教育」の問題点をそのまま再現するのではなくて、「ゆとり教育」を目指した本来の目的とも矛盾しない形で、新たに目指す「競争教育」を主張しなければなりません。

自分の決めつけをもう一度点検する

 上の模範解答文には、筆者の決めつけ・偏見が散見されます。
 先程も問題にした、学力偏重教育は「意味のない競争」であるとか、ゆとり教育は「学問を重視しない」だとか。「学習内容が減ったため、若者は競争意識を失い、生活にハリをなくしている」とか。これらの言葉で言わんとするところは、一面で的を射ているところもあります。
 ですが、これらの言葉で、自分は何を言いたいのかをもっときちんと考えてみる必要があります。「意味のある競争」とは何か。重視すべき「学問」とは何なのか。求める知識の量を大幅に復活させて増やすことが本当に学問重視につながるのか。知識の量を大幅に増やして競争させることが本当に生活にハリを復活させることにつながるのか。こういったことを、もう一度検証してみなければなりません。
 今こうして私に指摘されてみると、これらが筆者の決めつけであり、こうした偏見に満ちた主張は、全く説得力が無い曖昧模糊としたものであることが分かるのではないでしょうか。

ゆとり教育は勉強や競争を強いない?

 これも決めつけの一種ですが、「ゆとり教育は勉強や競争を強いない」というのは本当でしょうか。
 入学・入社試験は、入りたい者をふるい落とす選抜試験なので、いくら学習内容を減らしても、競争がなくなるはずはありません。そして、競争がある以上、限られた内容なら、それを正確に取りこぼしなく答えることができる、より繊細な勉強が必須になってきます。
 どんな世の中になっても、勉強を求めない、競争のない社会など来るはずがありません。

模範解答文添削例(リンクで縦書きPDF表示)

 しばらく前から、日本の学校では、かつての受験競争が否定されて、学習内容を減らすなどして子供たちの負担を減らす「ゆとり重視の教育」が行われてきた。この「ゆとり教育」が今また問題になっている。
 確かに、ゆとり教育のおかげげで、生徒たちは受験による抑圧から解放されて、自由に生きられるようになった面はある。かつて受験競争が激しかった頃、子供たちは競争に明け暮れなければならず、そこから脱落したものは「落ちこぼれ」として、差別的な扱いを受けた。それに比べれば、勉強や競争の負担を軽減させた現在のゆとり教育は好ましいのかもしれない。
 しかし、ゆとり教育は大きな問題も生んだ。それは、負担軽減のために、安直に教える知識量を大幅に削減したことが、若者の知的なもの、難解なものへの敬意を失わせ、学習への意欲を奪い、結果、大学に入っても専門科目の勉強についていけないと心配されるほど、子供の学力低下を招いてしまったことだ。これでは、技術立国日本の将来が危ぶまれる。
 本来ゆとりとは、教える知識の量を厳選するとともに、その厳選した内容に深く切り込んでいく思考力を鍛えることで生むべきものではなかったのだろうか。従来型のゆとり教育では、それが出来なかったがために、若者は知的好奇心を失い、生活にハリをなくしてしまった。
 かつて若者は、学校での他者との様々な競争の中で自分の能力や限界を知り、自分の個性やアイデンティティを発見していた。だが、むやみに競争を避けさせる現代社会の若者には、そうした努力の機会も奪われている。
 競争はいずれの社会でもある。問題なのは、何を競わせるかであり、敗者復活が出来ない今の社会のあり方でもある
 私は、従来型のゆとり教育を今こそ改めて、もう一度、学習指導のあり方を見直していくべきだと思う。
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