もっと恐ろしく大きいもの
『走れメロス』異論 -本当に友情と信頼の物語なのか-
もっと恐ろしく大きいもの
岡山大学大学院教育学研究科研究集録 第171号(2019)1-8 の、「太宰治『走れメロス』論 -「信頼されてゐる」ことをめぐって-」木村 功 という論文が面白い視点を提供してくれているので、それに言及しながら、メロスをセリヌンティウスと王が待つ王城へと走らせる「もっと恐ろしく大きいもの」とは何だったのかについて考えてみたい。
木村氏の論文要旨
上掲論文に於いて木村氏は、疲労で倒れ伏すまでのメロスについて、「メロスに意識されているのは、実際はどうであろうと、自分が約束を守るべく〈努力した〉ことであって、人質のセリヌンティウスの身の上ではない。この意味において人質になっているセリヌンティウスの信頼を意識できているかという点では、メロスの態度は〈愛と真実〉から遠いものであった。」とメロスの自己中心性の一貫性を認めている。
しかし、その後メロスがセリヌンティウスの信頼を意識するようになったことによって、「メロスの意識の正面にようやくセリヌンティウスが据えられ」、「ディオニスとの約束を果たすことで真実を示し、自分の名誉を守るために走るメロスから、セリヌンティウスの命がけの信頼に応えるために走るメロスへの変容が認められる」と考える。
よって、「もっと大きい大きい(恐ろしく大きい)もの」とは、「他者から信じ
メロスが途中で自分に置かれた信頼に覚醒した?
上記の木村氏の読みに対して、前半部分は共感するが、後半部分の捉え方には、私は納得ができない。
確かに、前半部分ではメロスの意識に全くなかったセリヌンティウスの信頼についての意識が、物語の後半、「勇者に不似合いな不貞腐(ふてくさ)れた根性」を語るあたりから、メロスの意識に登場し、以後、セリヌンティウスの信頼についてメロスの心中に大きく関心が移っているという指摘は、鋭い。
しかし、セリヌンティウスの信頼に応えるためにメロスが走ったという解釈はどうかと思う。
最初に出てくるセリヌンティウスの信頼に対する台詞は、「信頼の大切さへの自覚」ではなく、「私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ!」という言い訳に向かう。
岩から流れ出る清水によって疲労回復したメロスに生まれた希望は、「義務遂行の希望」であり、「私は、信頼に報いねばならぬ」、に続いて、 「先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。~五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。メロス、おまえの恥ではない。~再び立って走れるようになったではないか。ありがたい!私は、正義の士として死ぬことが出来るぞ。~私は生まれた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせてください。」と考える。
この引用から見えてくるのは、やはり前半部分と同じく、メロスは自分の名誉を守るために走っているだけであって、セリヌンティウスの命がけの信頼に応えることを至上命令としているというよりも、信頼に応える自己像に酔うために走っているだけだということだ。
つまり、自己弁護によってでも、「信頼に懸命に応えようとする自分のイメージ」を壊されさえしなければ、メロスにはそれでよいのであって、それは命をかけた信頼に応えるためのものなのでは断じてない。
だからこそ、「王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」という、弟子がセリヌンティウスの様子を伝える言葉に対して、「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。」というような反応になる。
本来なら、信頼に応えるためには、是非とも期限に間に合わなければならない。もし、期限に間に合わず、セリヌンティウスの命が失われてしまったなら、約束を果たすためにどれだけ努力をしたとしても、信義を大切にする人間にとっては、そんなことは何の値打ちもない。にもかかわらず、「間に合う、間に合わぬは問題でない」と言い、「人の命も問題でない」と言えるのは、メロスが、本当は信頼を大切にしているのではなくて、「信頼に誠実に応えようとする人間であるという自己イメージ」を保つことができることを何よりも大切にしている人間だからだ。
つまりここでもやはり、メロスは〈愛と真実〉からはほど遠い、自己中心性の中にいるのである。
何が原因で人間がそんなに極端に変われる?
木村氏のような解釈だと、疲労困憊して弱気になってから、清水によって元気を取り戻すまでの間に、メロスは人間性が180°変化したことになる。しかし、そんなほとんどきっかけもならないような、セリヌンティウスの信頼に対する遅すぎる意識の発現だけで、他人の誠意について、これまであまりにも鈍感だった人の人間性が、そこまで極端に変わることがあるだろうか。
どうもありそうにない話である。
「もっと恐ろしく大きいもの」とは?
以上のように考えれば、メロスを走らせた、「もっと恐ろしく大きいもの」とは、愛・信実・信頼などというような人間の美徳として考えられる徳目そのものでは無くて、「そのような自分が備えているべき徳目を、自分自身が備えていると信じさせてくれるもの、理想の自己像通りの自分であるという自尊心を守らせてくれるもの」ということになる。誤解を恐れずに極端な言い方をすれば、メロスは徳目を懸命に守ろうとする自己イメージを保つことさえできれば、徳目自体は損なっても、あまり気にせずに生きていける人物なのだ。
王はなぜ改心した?
メロスとセリヌンティウスが、お互い「一度裏切りを疑った」「考えた」ということを告白して、許しのために殴り合った後の抱擁を受けて、王は「わしをも仲間に入れてくれまいか」と申し出る。人の心を信じられぬことを理由に、家族・親族さえ殺害してきた王が、なぜそんなに簡単に改心してしまったのか。
私には、そこのところが正直よくは分からない。王は、メロスの自己中心的で軽薄な本質をよく分かってはいないはずなので、メロスとセリヌンティウスの友情に感動したという捉え方はあるかもしれない。
しかし、この二人の友情というものは、その場合、「お互いのために、自分の命を危険に晒してでも、相手を信じて助ける」ということのはずだ。王は、メロスやセリヌンティウスの為に、自己犠牲を厭わないで、二人と関係を持ちたいと本当に考えたのか。なぜそんな気持ちになったのか、というのは理解に苦しむ。
むしろ、理解できなさ、深刻な人間不信に陥った王が、いとも簡単に改心してしまうというストーリーに、私などは嘘っぽさを感じてしまう。
そういう嘘っぽさを、この物語を、「メロスの友情と信頼を大切にする物語だ」と捉えるイメージの嘘っぽさと重ねて捉えようとする方が、むしろ自然なのではないだろうか。
メロスはほとんど全裸
最後の感動的な結末のシーンで、メロスがほとんど全裸であることが確認される。
この全裸は、「裸の王様」を連想させて、メロスが友情と信頼を体現したと、表面的には捉えられるような状況がいくらあったとしても、それが嘘っぱちだということを感じさせておかしみを誘うパロディになっているという世間の指摘は、あながち間違いではないように私は思う。