姑く友の言に従ひて
舞姫—常識と実感との乖離
6.姑く友の言に従ひて
相沢にエリスと分かれるという約束をしたときの、「姑く友の言に従ひて」という言葉を読むと、我々は、この時すぐに、「エリスか名誉恢復か」を選択しようとして迷った豊太郎が、とりあえず友人のいうとおりに答えておいたととらえたくなってしまう。
しかし実は、豊太郎が「エリスを取るか栄達の道を取るかどちらかを選ばなければならない。」と明確に意識したのは、ロシアに行ってエリスの手紙を見た時が最初なのである。だからそれまでは、彼の心には、この二つが明確な形で対立するという意識は全くなかったことに、我々は注意しておかなければならない。
「嗚呼、余はこの書を見て始めて我地位を明視し得たり。」と、よほど取り返しがつかなくなったこのときになって、豊太郎は初めて、「名誉恢復か、愛情かのどちらかを自分が選択しなければならないのだ」ということに気づく。そしてそこからやっとどちらにするべきかについて悩み始める。
そしてそれと同時に、彼は自分の「自我の覚醒」が、「足を縛して放たれし鳥の暫し羽を動かして自由を得たりと誇」っていたのと同様の不十分なものであったことを自覚する。
自分の意見を上司である官長に言うようになって、それが遠因で免官になった豊太郎は、確かにある意味では、自分の本領を発見し、それに忠実に行動した。しかし、それは彼を取り巻く社会の常識と根本の所で対決したものではなかったのである。彼は自分で考えた。考えたつもりでいた。だが、自分の置かれた状況を明確に自覚するまでの彼は、彼が育てられてきた社会の、「仕事をすることこそ男子一生の本分である。」という常識に無意識のうちに縛られ続けていたのである。
「自分たちの持つ常識がおかしいかもしれない。」ということに気づかせてくれるものはあった。それが「楽しい」という感情であり、「捨てがたい」という意識である。ところが彼はそれを直視せず、「自分の持つ価値観」=「相沢を代表とする彼を取り巻く社会の価値観」=「常識」を信じ続けた。そういうところでなされたのが、「この情縁を断たん」という相沢との約束なのである。
このような「自分の持つ価値観」=「常識」と「実感」との乖離は、あるいは食べ物の例で説明すれば実感しやすいかもしれない。変な例で恐縮だが、例えばある食べ物を食べてもっと食べたいと思い、おかわりを所望する。ところがそれが蛇だったと知った途端に吐き出してしまうというような場合である。
このような食べ物の場合では、おそらく、蛇に対する認識を変えようと変えまいと恐らくそれほどたいした人生の問題にはなるまい。だが、人間が生きていく上で大切な、例えば「恋愛か男子の志か」というような問題について、実感と常識とが食い違った場合には、生き方を変えるのか、それとも実感を嘘だと思って押し殺して生きていくのかはとても大切な人生の岐路になる。
さて以上の説明では、あるいは「姑く友の言に従ひて」という言葉と矛盾するように思われるかもしれない。だがこの言葉は、その時の心理を振り返って、帰東の舟の中でエリスとのことで悔恨に打ちひしがれている豊太郎が、「あのときこう答えてしまったのはこういう心理からだったのだ」と自分の心情を分析して見せた言葉なのだということに、我々はもっと注目を払われなければならない。この言葉が、「足を縛して放たれし鳥の暫し羽を動かして自由を得たりと誇」っている状態にある人の自己分析だとしたら、これはあまりにも的確にすぎるのではないだろうか。
『舞姫』に描かれる豊太郎は、「エリスを捨てなければならない」という読者にはすぐにでも分かるようなことにいつまでも気が付かず、人を信頼するといっては、自分の行動の内容すら把握できない優柔不断な男である。このような男に腹を立てるのは、読者なら当然のことだ。
だが、我々のこの豊太郎批判は、豊太郎のかなり明晰な自己分析の後追いにすぎない。自分で考えたつもりになって結局は何も考えずに行動してしまっていること、自分で選び取ったつもりでいて実は、自分では何も選んでいないこと、「実感」と「常識」との乖離、普通の人間なら気づかずに何の矛盾も感じずにやり過ごしてしまうこれらのことについて、気づき悩む自分の弱い心を、自己批判して見事なまでにさらけ出してくれる豊太郎の告白があるからこそ、それに従って、私たちは豊太郎が弱い人間であるということに気づき、いじましい人間だと弾劾するわけである。