生き物のさだめ

山月記—「人間」であることを求め、破れた李徴

2.運命を受け取って望む方向に生きていかなければならない人間の嘆き

 李徴は、虎になったことから、生き物としての存在について、「理由もわからずに押しつけられたものをおとなしく受け取って、理由もわからずに生きてゆくのが、我我生き物のさだめだ。」と、生き物という存在についての感想を述べている。この感想は、自分のあずかり知らないところで不本意ながら虎となる運命に立ち至った李徴の痛切な嘆きだ。
 「理由もわからず〜」の言葉は、すべての動物が甘受しなければならない現実として真理だろう。だが、この言葉を動物一般に当てはまる普遍的な真理を表した言葉としてだけ理解するのではおそらく不十分だ。
 この言葉は、不条理な運命と、自分の望む生き方との乖離(かいり)を強く意識している「人間」の言葉である。そして、「理由もわからずに生きていく」のであるから、その意識が生きていく間中ずっと続いていくのである。
 動物と人間との本質的な違いをここで論じる術(すべ)はないが、少なくともこの意識は、不条理な運命と、自分の望む生き方との乖離(かいり)を強く意識し、なおかつその不条理な運命に抗(あらが)いつつ自分の望む生き方を意識的に追い求めていこうとする人間の意識なのである。これは、与えられた運命に本能的に対応しつつ、求める快楽を得られないで無意識のうちに違和感を感じるような動物的な生き方とは本質的に異なる。
 従来、この感想は「人間存在の不条理さ」を表明したものだといわれてきた。「理由もわからずに押しつけられたものをおとなしく受け取って、理由もわからずに」己の求める方向に向かって生きてゆかねばならぬことを悲劇だととらえる人間の意識を表現した言葉として、この「不条理さ」を人間だけに限定する捉え方は正しい。
 この、「理由もわからずに押しつけられたものをおとなしく受け取って、理由もわからずに生きてゆくのが、我我生き物のさだめだ。」という言葉は、与えられた運命(「受身形で与えられた生」〔※注〕)と正面から向き合い、「自分の納得のいく生き方をするにはどうすればよいか」ということ「主体的に把握し」ていこうとして、悲鳴を上げている人間にして初めて出てくる言葉であるにちがいない。

※『詩のこころを読む』 茨木のりこ 岩波ジュニア新書
  「生まれて」の項参照
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