舞姫

舞姫—常識と実感との乖離
1.『舞姫』は批判を受けるように書かれている
『舞姫』を読んだ読者は、この作品の発表当時から現代に至るまで、「愛を取るべきであった。」「少なくとも最後くらいはエリスに自分で本当のことを言うべきであった。」「優柔不断である。」などと豊太郎を批判をしたくなる。そしてそのあげく、過激な読者は「話の筋立てが気にいらない。」というような抗議をする。
しかし、『舞姫』という小説は、実はそのような批判を生むように書かれているのである。
「人材を知りてのこひにあらず、慣習といふ一種の惰性より生じたる交なり。」と考える方がむしろ一般的な風潮の中で、エリスを一途で汚れたところの一切ない、ある種の聖女として描き、その悲劇性を強調することによって、「弱く不憫なる心」について自分の弱さを徹底的に自己批判する豊太郎を描き、普通の人間の心では気づかない心の弱さをこれでもかと読者に見せつけることによって、読者に「身分を超え、人種を超えた愛の至上」を感じさせ、豊太郎の「弱く不憫なる心」を弾劾させる。それが『舞姫』なのだ。