情緒的に生きる苦悩

羅生門—情緒的に生きる自分を見つめる精神的苦痛

6.自分が情緒的に生きていることを自覚している人間(芥川)の苦悩

 しかし、なるべく理性的に考えて自分の生き方を決めていきたいと願っている人間が、もし、自分が理性的なレベルにまでつきつめることなく、結局は下人のようにごまかした生活をしていることや、自分でよく納得しないままエゴイスチックな行為をしていることを自覚していたとすれば、その人の苦悩なり精神的な苦痛なりはたいへんなものになるはずである。
 この小説は次のように終わる。

外には、ただ黒洞洞たる夜があるばかりである。/下人の行方は、だれも知らない。

 ここからはよく言われるように、下人の将来に対する救い難い絶望が感じられる。しかしこの絶望は、その行為をしている本人の絶望ではない。生のエゴイズムを容認して生きていく人間は、生のエゴイズムを全く否定して生きていく人間と同じように強い。そして、これは意外なことかもしれないが、下人のように自分の行為を適当に合理化して悩まない人間もまた「強い」のである。彼らには深刻な絶望も悩みもありはしないからだ。
 だから、下人の姿に絶望を感じるとすれば、それは、下人の行動を見つめる作者なり、読者なりの視点だ。それでは、この物語を読んで、もしくは書いて、どのような作者・読者が絶望を感じるのだろうか。
 よく言われるのは、下人の姿から感じられる絶望は、「生死をかけたのっぴきならない状況に於ては悪をも認めざるを得ない」というような、生のエゴイズムを容認せざるを得ない所からくるものだということである。だが、それを読者に本当に実感させようとするのなら、下人のように善良で絶対に悪の方向に行きたくない人間ですら、どうしても抗(あらが)いがたく悪の方向に進まざるを得ないきっかけとなる何者かが物語の展開の中に絶対に必要となるはずだ。
 だが、実際の『羅生門』の物語は、ちょっと物語を本気で読んだ者でも、なぜ下人は悪を働いたのか、善を行うためなら飢え死にをも厭わないはずだった下人が、なぜすぐに老婆の着物をはぎ取ってしまうのか、理解に苦しむ人も多い話なのである。
 そのようなことが分かれば、ここで感じられる絶望感は、「生死をかけたのっぴきならない状況に於ては悪をも認めざるを得ない」というような、生のエゴイズムを容認せざるを得ない所からくるものなどではないことは容易に理解できるはずだ。
 これまでのところで詳しく見てきたように、羅生門の下人は、「行為の選択を迫られた時、いろいろ悩みながらも、結局は、理性によって判断を下す前に、まわりの状況に応じて生じた心理に身をまかせて行動してしまう、極めて情緒的な人間」であった。
 このような下人の生き方に絶望の救い難さを感じる人がいるとすれば、それは、理性的に生きることを望みながらも、結局は下人のような不徹底な生活を送らざるを得ない自己を見つめる苦しさ・絶望を感じる作者であるはずである。そしてそれは同時に、作者のそのような思いに共感する読者でもあるに違いない。

羅生門説明図 
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付記

 上の図は、岡山芳泉高校に在職された山吹尭敏先生の、小説を図式化する試みから示唆を受けて、先の読解を一枚の図にまとめたものである。授業時に行った板書を取り入れている。
 山吹先生の実践は、国語フォーラム通巻37号(61年9月号)に「小説教材の図式化」として紹介されている。

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