身分・人種を超えた愛

舞姫—常識と実感との乖離

2.「身分を超え、人種を超えた愛の至上」を訴える

 エリスは、上流階級の言葉遣いもできず、その境遇は、「賤しき限りなる業に堕ちぬは稀なり」というようなものであった。なるほど当人はそうなることを免れてはいても、彼女が豊太郎を伴って帰ってきた家では、父親の葬儀の金を工面するために、座頭のシヤウムベルヒの「身勝手なるいひ掛け」を受け入れる用意が彼女の母親によって既になされていたのだから、豊太郎が助力を申し出なければ、彼女は泣く泣くにでも母の言葉に従うほかはなかったはずだ。だからそのような彼女のことを、彼女を見る人が「路頭の花」と同様の存在だと見なしても、それはそれで仕方がない。
 たとえば、「最終的には豊太郎が愛を取る物語を書くべきであった。」という主張の通り、そのような相手との交際が原因で免官になったあげく、その女とドイツの片隅でひっそりと愛を暖めながら生活するという物語をもし書いたとして、その「美しい愛の物語」に共感する者がはたして何人いるだろうか。
 たとえば、豊太郎が最後の場面で意識不明にならず、エリスが心神喪失にならかったとして、読者はエリスに今の『舞姫』以上の同情を寄せるだろうか。
 ドイツで失職してエリスと暮らす豊太郎は、彼の属した日本の上流階級からすれば脱落者に過ぎない。そういう脱落者が、これまたドイツ社会の片隅で生きるエリスとの関係を、「これぞまさしく真実の愛だ。」といくら主張してみても、それでは誰も共感する者など居ないに違いない。
 今日は、いわば恋愛至上主義の時代である。だから「恋愛の前には、身分も人種も大した弊害ではない」と考えることが当たり前になっている。だから、それに異を唱えようとすれば、すなわち、「自由恋愛に対して、家柄が釣り合わない」などと主張しようとすれば、とてつもない反発を受けることを覚悟しなければならない。(だが実際には、そのような現代に於いてでさえ、エリスのような身の上の女性とつきあうことへの抵抗感は想像以上に強い。)
 しかし、『舞姫』の時代は全く逆だ。そのような時代に、「『路頭の花』にすぎない分際で身分をわきまえるべきだ」というような反感を一切読者に感じさせることなく、エリスの愛を「踏みにじることのできない聖なるものだ」と読者に感じさせ、「身分を超え、人種を超えた愛の至上」を読者に訴えるためには、是非とも今ある『舞姫』のような筋立てにならなければならなかったはずだ。

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