羅生門

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羅生門—情緒的に生きる自分を見つめる精神的苦痛

 「下人が盗みを働く勇気を持つに至ったのはなぜか。」この問いについて考えていく中で、「羅生門」をいかに読むべきかを考えてみたい。

1.下人はなぜ門の下で逡巡(しゅんじゅん)していたのか

 門の下で盗人になることに逡巡している下人の心理はおおよそ次のようなものである。
 「四、五日前に暇を出された」下人は正当な手段によっていては生き抜いてゆく術(すべ)がもう自分には残されていないことを知っていた。そして、(正当な手段で)「どうにもならないことを、どうにかするためには、手段を選んでいるいとまはない。」「盗人になるよりほかにしかたがない。」と考える。
 彼の置かれた状況からすれば、彼がこのような考え方になるのは極めて自然なことであり、普通ならこの結論を出すまでにそれほど時間がかかるはずはない。にもかかわらず、下人の考えが「何度も同じ道を低徊したあげくに」でなければこの結論にたどり着かず、「(手段を)選ばないとすれば」という仮定の話がいつまでたっても仮定の話のままで留まって実行に移されないでいるのは、結局下人が、「論理としては生きるためにやむを得ず行なう悪は認めよう」と考えはしても、それを自分が行うことを認めたくない気持ちから、何とかそこに行き着かないようにしているからである。
 つまり、下人は門の下で、生存のための必要悪を自分の行為に移す程度にまで肯定する(「積極的に肯定する」)かどうか、という問題で悩んでいたのだ。

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