学問・相沢を恨む心
舞姫—常識と実感との乖離
8.「学問」と「一種の見識」、相沢を恨む心
免官になった豊太郎は、自分の「学問」が荒んだことを嘆くと同時に、自分には「一種の見識」が身に付いたと自負する。
ここでいう「学問」とは、言うまでもなく、彼が生きいくことを望んでいる官僚の社会で求められている学問である。豊太郎はここでは、「我学問は荒みぬ」と嘆きながら、一方で、彼が生きていくことを望んでいる官僚の社会で求められているものが、「法令条目の枯葉を紙上に掻寄せ」るような皮相なものにしかすぎないことを見抜いている。
豊太郎は「故郷を憶ふ念と栄達を求むる心」とに従って、天方伯について帰郷することを選んだ。しかし彼を待っているのは、西洋文明の精神的な理解をないがしろにして、西洋の形ばかりをまねている社会である。男女の仲にしても、洋服を着、ダンスを踊るような生活をまねてはみても、中身は旧態然とした相沢のような考え方のままの社会なのだ。
いかに挫折したとはいえ、豊太郎は西欧文明の本質を幾分かは身につけている。そんな彼にとって、彼がこれから帰っていこうとしているこのような社会は、とても住みにくいものであったことは間違いない。
豊太郎は、相沢がエリスを「精神的に殺し」たといい、また、相沢を恨む心を持っているという。豊太郎がいくら責任転嫁を図る弱い男だといっても、本当にエリスを精神的に殺したのが自分であるということくらいは、彼には十分すぎるほど分かっていたはずである。そうだからこそ彼は、いつまでも「限なき懐旧の情」に苦しまなければならないのだ。
だから豊太郎のこのような責任転嫁をする言い方には、むしろ、彼にこのような生き方を選ばせ、悔恨の情を感じさせている日本の社会に対する恨みと、不信感とを見るべきなのではないだろうか。彼は自ら選び取って日本の社会に帰っていこうとしながら、同時に、その社会は自分の人間らしく生きたいという思いを疎外するものになるに違いないという不信感も抱いているのである。