『「羅生門」55の論点』2

『「羅生門」55の論点』を読んだ 2

この雨の夜にこの羅生門の上で

 「この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。」という判断は、はたして「非論理的、感覚的」P107 なのでしょうか
 私にはこれは極めて合理的だというように思えます。
 羅生門は死人が捨ててあり、狐狸や盗人が住む、「日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪がって、この門の近所へは足踏みをしないことになってしまった」場所です。そのような場所に、更に人が出歩きそうにない雨の夜、2階まで足を踏み入れる者がいるとすれば、それは、「普通の人間ではないだろう』と考えるのがむしろ自然というものです。「火をともしている者の存在に気づいた下人が、その者を、怪しい、ただの者ではない、と思ったのは、極めて当たり前のこと」だったと認めるのなら、この限られた判断材料の中で下人が下した判断は極めて合理的だったと言わなければなりません。
 ですから、これを「Sentimentalisme」と結びつけ、「下人は、目の前のものに影響されやすく、論理的ではない人物」であると判断する根拠にするのは間違っています。
 ところが、同じような表現ながら、「この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くということが、それだけで既に許すべからざる悪であった。」の方はどうでしょうか。こちらは、「合理的には、それを善悪いずれに片付けてよいか知らなかった。」のですから、合理的な判断とは言えない、極めて情緒的な決めつけです。
 悪を懲らしめようとするにしろ、悪を働く行為に走るにしろ、こういう己の生き方を決める最も重要な場面で、情緒的な判断をし、情緒的な行動を取ってしまうところが、この下人の理性的ではない部分なのだと言えます。

下人は特殊な人間なのか

 「理性的ではない」「情緒的だ」と言ってしまうと、この下人が極めて特殊な、弱い人物に思えてきてしまいます。人はだれでも、「自分はそんな情緒的な人間ではない」と思いがちな(思いたい)ものなのです。
 しかしちょっと冷静になって自分の言動を振り返ってみれば、誰でも、「自分の言動の大部分が、理性的な判断によるものではない」ということに気がつくはずです。日常生活の些細なことまで理性的な判断を一々していたら、おそらく気が狂いそうになるほど大変でしょうし、実際そんなことなどできはしません。そして、「あれかこれか」と人生の一大事に当たって長期間必死に悩んでいたつもりでいても、結局は足を踏み出すきっかけになったのが、そんな悩みとは無縁の、全く別の要因であったということなども、人生の中では大いに有り得るはずです。
 寓話というものがあります。「矛盾」や「蛇足」などの故事成語のもとになった馬鹿な人間の話です。でもこれは、分かりにくい政治の話をわかりやすくするために、「誰でもこんな馬鹿なことはしないだろう」という人の話を例えとして提供したものです。「そんな馬鹿なやつはいないだろう」と思っていたのに、「実は自分がそんな馬鹿なやつと同じことをしていたのだ」と気づかせるための話です。
 下人の「Sentimentalisme」「目の前のものに影響されやすく、論理的ではない人物」というのもこの寓話に似ています。「下人のような情緒的な判断・行動など俺は絶対にしないぞ」と思っている人が、実は下人と同じような行動パターンで生活していた、そんなことを悟らせてくれるのが、下人の、「Sentimentalisme」なのです。

Sentimentalisme

 指導書や解説本などで時々見られるのが、「限界状況の中で、悪を選ばざるをえない人間のエゴイズムを表現したのが『羅生門』だ。」というような解釈です。この「Sentimentalisme」の言葉の響きと、限界状況というニュアンスが食い違うため、多くの読者が戸惑うのかもしれません。
 しかしそもそも、四、五日前に暇を出され、「どうにもならないことを、どうにかするためには手段を選んでいるいとまはない。」という状況ではあっても、この時の下人は、「死体の肉でも食わなければ生きてはいけない」というほど鬼気迫って追い詰められ、目が血走っていたわけではありません。
 いずれそうなって動けなくなることは間違いなく予想できはしても、まだ、「どうしようかな、どうしようかな」と悩んでいる余地はあるのです。
 ですから、「限界状況」という言葉そのものがしっくりとはきません。むしろ、この場になっても、「どうしよう、どうしよう」と具体的な対策も考えることができずに漠然と考えている状況が、この下人の様子なのだと言えます。
 これを下人の「非論理的、感覚的」な生活態度と結びつけることはおそらく間違いではないと思います。けれども、だからといって、「下人だけがそんな非論理的な性情を持っている特殊な弱いやつだ。」と考えるのは間違っています。誰しもこういう状況に置かれたなら、焦るだけ焦って、具体的な対策を考えることができないまま、呆然としてしまうことが多いのではないでしょうか。それがこの下人の「Sentimentalisme」です。
 「あせるだけあせって結局は何も考えられてはいない状態」を、感傷しているだけなのとほぼ同じ状態だと捉えているあたり、芥川一流の観察眼なのではないでしょうか。

近代的人間の精神を描こうとしている

 「Sentimentalisme」はフランス語ですから、、平安時代の物語を、平安時代らしく描こうとするなら、使うべき言葉ではないでしょう。
 ここであえてこの言葉を使ったのは、明治時代になって、西洋文明に触れた上での、近代的人間の精神を描き出そうとしているからです。平安時代の人間の行動、考えを素材にしながら、そこに、誰の心にも横たわっている近代的人間の精神に通ずる心の動きを描こうとする意図が、作者芥川龍之介にはあったはずです。
 

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