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友情に対する憧れとは違う
『走れメロス』異論 -本当に友情と信頼の物語なのか-
友情に対する憧れとは違う
この小説ができた背景としてよく言われるのは、遊び回った借金を工面するために、太宰治自身が、檀一雄を人質として熱海に残して東京に帰ったけれども、借金のかたにされた檀が債権者とともに、痺れを切らせて帰って来てみたら、当の太宰は、借金の工面をすることもなく、井伏鱒二と将棋を指していた。それで文句を言ったら、太宰は、「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね。」と返したとかいうエピソードだ。
この小説が書かれたのが、太宰が精神的に比較的落ち着いていた時期だったということもあり、そこから、太宰自身は友達を人質にして約束を果たせなかったけれども、約束を果たす人への憧れを書いたのではないかというような読み方をする人も多いらしい。
しかし、そのような憧れを本当に書きたかったのなら、実際のこの作品のように、ツッコミ所満載な小説に仕上げる必要はなかったのではないだろうか。
「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね。」という言葉には、自分が誠実に約束を履行しようとしてはいないことをごまかしてケムに巻いてしまおうとするような、何か確信犯的な匂いがする。
「待たせる身が辛い」というのは、本来、約束を果たそうとして懸命に努力するけれども、それがなかなか叶わない人の心情であって、約束を果たすための借金のことさえ言い出すことができないような、気弱で自己防御本能の塊のような人間の心情ではないはずだ。
「憧れを持つ」ということは、そのような存在になれない自己を否定することにもつながる。しかし、このような自己弁護の言葉を吐くような屈折した人間が、一途に友情を守ろうとすることへの強い憧れを持って、そうなれなかった己を否定し乗り越えたいと思っていたとは、やはり到底考えられない。
もしたとえ、「憧れがあった」ということを百歩譲って認めたとしても、「でも、そう簡単にはそんな能天気にはなれないよ」という気持ち=本音の方が遥かに強かったに違いがないのである。
だからこそ、出来上がった作品には、友情への信頼がストレートに表現されるのではなく、そのような気持ちが随所に見え隠れしているとも言える。
作品から一歩距離を置いて、太宰治自身の、小説の元になったのではないかといわれるエピソードを踏まえたとしても、やはり前頁のように、「世間一般に手放しで信じられている友情や信頼」といったものに対する不信を読み取ろうとする方が、この作家としても相応しいような気がする。