『「羅生門」55の論点』1

『「羅生門」55の論点』を読んだ 1

根本的な読みが間違っている

羅生門説明✕1

 この本は、『羅生門』を巡る55の論点に対して様々な考察がなされており、なかなか面白い見解・着眼点もあります。
 でも根本のところで読解の基礎になる読みが間違っているため、それらの考察が総合的な解釈に繋がっていかない恨みがあります。

「前の憎悪が、冷ややかな侮蔑と一緒に、心のなかへ入ってきた」とはどういうことか

(『「羅生門」55の論点』 三宅義蔵 大修館書店 P171 より引用)

  1. まず、下人の心には、「悪を憎む心」が燃え上がっている。
  2. そこで下人は老婆をやっつけ、「悪を憎む心」、は冷めてゆく。
  3. 「得意と満足」が心を占め、「悪を憎む心」はどんどん冷めてしまった。
  4. また、老婆の悪行の理由に対する期待も高まり、「悪を憎む心」はさらに冷めている。
  5. しかし、老婆の平凡な答えを聞いて、失望した。
  6. それまで下人の心の表面を占めていた「得意」「満足」「期待」が消滅する。
  7. また、老婆に対するさげすみの心が生じた。
  8. 「得意」「満足」「期待」が消滅し、「悪を憎む心」が復活した。
  9. また、新たに、老婆に対する冷ややかな侮蔑が生じて、加わった。

 多くの班の共通の発表の流れは、
  a 老婆を見たときに、「悪を憎む心」が燃え上がるものの、
  b 「他の感情」が心の表面を占めたので「悪を憎む心」はいったん表面から隠れ、、
  c そののち「他の感情」が消滅したとき、「悪を憎む心」が表面に復活し、
  d かつ、あらたな「侮蔑の心」が加わった、
というものです。……(中略)……右(上)の流れ図は、そのような説明の中で特に簡潔でわかりやすいと思われたものです。

心に入ってきた「前の憎悪」は、「前の憎悪」とは別物

 老婆が女の髪の毛を抜き始めたのを見たときに下人が感じた「前の憎悪」は、言うまでもなく、「あらゆる悪に対する反感」=「悪を憎む心」でした。
 でも、下人が老婆の、女の髪の毛を抜く説明を聞いたときの憎悪は、なるほど「前の憎悪が心のなかへ入ってきた」とは書いてあるのですが、それを素直に、「悪を憎む心」が帰ってきたと考えてしまうと、とてもおかしなことになってしまいます。「悪を憎む心」を強く感じているのに、門の下では持ち得なかった「盗人になる勇気」が生まれてきたということになってしまうのですから。
 ですから、帰ってきた「前の憎悪」とは、前の憎悪の正しい言い方、すなわち「あらゆる悪に対する反感」=「悪を憎む心」ではなくて、語弊を生む言い方として説明されていた、「この老婆に対する激しい憎悪」でなければおかしいのです。
 そもそも、「前の憎悪」はなぜ起こってくるのか。それは、自分を「頭身の毛も太る」ほどに恐れさせた相手が、「殺すぞ」とちょっと脅したくらいでブルブル震えてビビっている取るに足りない侮蔑すべき相手だったからです。これは本当のところを言えば「枯れ尾花に怯えて、自分が勝手にビビっただけ」なのですけれども、こういう場合、怒りの矛先は、「ビビらせた相手」に向かうのが普通です。「自分の早とちりで勝手にビビって反省!!」とは、普通なりません。
 そのような下人の心の自然な変化の流れを、もっともらしい理屈を並べることをしないですんなりと納得させられないような説明は、どんなに言葉を尽くしたところで、「腑に落ちないな」という違和感が絶対に残るはずです。

下人は、そもそも老婆の話をまともに聞くはずがない

 これは前頁でも説明しましたが、そもそも老婆の話を聞いて、下人が盗人になることを勇気づけられるはずはないのです。侮蔑し憎悪する相手の理屈を、『なるほど」と聞き入れてまともに自分の意見に取り入れようとするお人好しがどれだけいるでしょうか。
 ですから、「老婆の論理をどれだけ下人がきちんと受け止めたか」「下人の理屈と老婆の理屈は変化していないか」というようなことを考えるのは、ナンセンスです。下人が盗みを働くに至ったのは、理性的に理屈・考えで納得して受け入れたのではなくて、老婆に対する憎悪が原動力で、衝動的に嫌がらせのために行動しただけなのですから。

老婆の着物を剥いで餓死が防止できるか

 猿のような老婆の檜皮色のあまりきれいそうでもない着物を盗み取ったとして、どれだけ生活の足しになるでしょうか。この本を読んでいると、むしろ、老婆のかつらの方がまだよほど収入になりそうです。このように考えれば、老婆の着物のような生活の足しになりそうにないものを憎悪に任せて盗んでしまい、その事によって、自分の今後の人生の方向性が決定されてしまうところに、羅生門の下人の本質があるように私は思います。

象徴などというのはよほど気をつけないと

 この本には、「おてんとうさまの光」と「老婆の火の光」、それに下人が駆け出していった、「黒洞洞たる夜」の闇とを象徴的に捉えようとするような試みも見えて、面白いと思います。
 しかし、このような象徴的な意味を読み取ろうとするような試みは、全体の読解の中で位置づける努力をしないと、部分的なところだけをもっともらしい理屈でこじつけてしまうだけの、どうとでも説明ができてしまう読解に堕してしまう恐れがあります。
 ちょっと説明を聞くとなかなか魅力的な発想であるだけに、基本的な読解をそっちのけにして、このような説明だけに囚われだすと、なかなか厄介であるように私は思います。
 

タイトルとURLをコピーしました