情緒的な生き方を象徴
羅生門—情緒的に生きる自分を見つめる精神的苦痛
5.下人は我々の「情緒的な生き方」を象徴している
私が「羅生門」から読み取るのは前項のような生き方をする下人の姿である。
我々は、毎日の生活をする上で重要な様々な選択を、いつも迫られている。もし我々が自律的な「人間」として生きていこうとするならば、それらに対して真っ向から向き合い、常に理性的に対応していくことを強いられているはずだ。
だが我々の日常生活は、普通、「自我を常に律している」などとは、とても言えたものではないのではなかろうか。下人のように、「善か、悪か」と悩みながらも、結局は理性による倫理的な判断(決断)にまで至らないまま、なんらかの別の要因によって自分の行為を決定してしまっていることのなんと多いことか。
そのような一般の人達の生き方をよそえて読み取ることができるのが「羅生門」の下人の姿であると私は思う。
闇の中に消えていった下人はその後どのように暮らしてゆくだろうか。それには様々な空想ができる。老婆の着物を剥ぐ、という行為に一歩踏み出した以上、その方向にそのまま進んでゆくかもしれない。
または、多くの読者が考えたがるように、いずれかの時に、「盗人になった」「もしくは盗んだ」ということを後悔したということも、根が善良な男だけに十分考えられる。
しかし、想像されるいずれの場合を考えても、下人はそれほど精神的な不幸なり、苦痛なりを感じずにすんだのではないだろうか。私には、下人は自分の行為をうまく合理化したり、あまりつきつめずにごまかしてしまったりして、結構幸せに一生を送っていけたように思われてしかたがない。