お金の原体験を与えたい
高校ではお金・商売に対する原体験を与えたい
高校でのホームステイの意義
商業教育と話題がはずれるが、少し我慢してつきあっていただきたい。
高校で一般的にホームステイに行かせるようになってからかなり経つ。私がかつて勤めていた新しいタイプの普通科高校でも、他校がまだホームステイを始めない頃、希望すれば誰でもホームステイにいけることを売り物にして、それ以前なら周りの高校に行っていた優秀な生徒を集めて、ずいぶんと他校から恨まれたものだ。
高校でホームステイなど高い観光旅行だが
それはさておき、高校生がホームステイに行ったとして、高校の宣伝効果は抜群だが、「親にとってはずいぶん高い観光旅行代だ」と私はその頃思っていた。大学で英文科にでも行ってホームステイをするのならいざ知らず、高校の1年生が夏休みに2週間ほどホームステイに行くとして、「その機会を生かして最大限自分のためになるように有効に使おう」などと考えて、行く前から一生懸命に準備をする生徒など、それほどいたとは思えない。
もちろんそのためにラジオの基礎英語を毎日聞かせて定期的に小テストをしてみたり、相手の国の様子を調べさせたり、日本の紹介を考えさせたり、教員の側は、できるだけ準備をしながらことを進める。生徒もまじめだから、当然宿題はまじめにやってくる。
だが、それは「与えられた機会を最大限生かすために自分から自発的に課題を見つけて努力する」のとは本質的に異なる。そのような状態でホームステイに行って、片言の英語をしゃべって、別れるときには涙を流して抱き合いながら別れを惜しむ。本人はもちろんホームステイに行って大満足なわけだが、英語学習という観点から考えると、ホームステイを目標点に据えて猛勉強するわけでもなし、本当に文章にもならないような片言の英語をしゃべって意思疎通をした気になって満足して帰ってきたとして、それがどれだけのものになるか。「親にとってはとても高い観光旅行代だ」と、当時は冷めた思いで眺めたものだった。
ホームステイは英語文化圏を身近に感じ、近づいていこうとする姿勢を持たせる原体験になる
このような思いは今でも基本的に変わったわけではない。だが、今は私は少し違った考え方をするようになった。
確かに英語学習という点から考えれば、ほとんど効果が無く高い観光旅行代だ。この点大学に行って自発的にホームステイをするのとは訳が違う。
しかし、このようにしてホームステイに行った生徒たちの中に、国際系(高校のコース選択で)に行って、他の教科は偏差値で50ほどなのに、英語だけは70もとるような生徒が何人も出るのである。全教科が70あれば、東大にでも行ける。しかし、彼らは英語だけは死にものぐるいでがんばっていい成績になるのである。(もちろん全員が全員英語だけというのではないが)
こうなる理由は、もちろんホームステイ先で英語を勉強したからではない。ホームステイに行くことによって、英語圏の国を身近に感じ、とにかく自分をそこに近づけるために英語だけは努力しようとするからだ。そして同じような思いで努力しているクラスメイトが周りにいるからだ。
つまり、高校での短期ホームステイは、英語学習という点からすれば、ほとんど実用にはならないかもしれないが、英語圏の文化を身近に感じ、それに近づいていこうとする姿勢を持たせる原体験にはなっているわけだ。
自分を制約する考え方を解放する原体験
私が高校生の頃には、ホームステイに自分が行くことなど想像もしなかった。大学に入ってもこれは同じだった。英語を一生懸命勉強しながら、自分が英語を使って自由に外国人とコミュニケーションを図っているところなど想像できなかった。
ところが、同じ頃の同じ大学でも、英文科の学生は、後から聞いてみると、ホームステイに行った人がかなりいたようだ。
我々は自分を取り巻く環境の中で、自分のあり方について、「こんなものだ」と決めつけて、それ以外の生き方の可能性があることに全く気づかないでいることが多い。つまり、何の根拠もなく、習慣からなじんだ考え方に自分を制約されて、それ以外の生き方を選ぶことができないような大きな壁を作ってしまっていることが多いのである。
だからかつての私のように、英語を学びながら、それを使って自分が外国人とコミュニケーションを図っている場面を思い描くことができないというようなことにもなってしまうのである。
ところが、高校生でのホームステイは、実質的に英語学習の効果はなくても、外国人とコミュニケーションを図る自分を思い描けないという心理的な壁を簡単に打ち破ってしまう。それどころかむしろ、実際には自分は片言の英語でさえ話せないのに、自分が英語を自由に使って外国人と会話している姿すら思い描かせるのである。
こう考えてみると、なるほど高校生にホームステイなど高い観光旅行もしれないが、自分が無意識のうちに作っている壁を打ち破り、その後の自分の生き方に影響を与え、変えさせてしまう原体験としては、大変な重みを持つ場合もあると考えられるのである。
商業高校での原体験
さてここで、商業教育の話に戻って、前項までで考えてきたことからも分かるように、現代の我々は普通「自分で商売を切り盛りしていく自分」を思い描けないでいる。自分で商売をするということに関して、知らないうちに大きな壁を作ってしまっていることが多い。
だから、商業高校で、商売の実務だけを教えただけでは、自営業者を育てることなどできるはずがないのである。だが、逆にもし、この壁を打ち破って、起業を身近に感じさせ、自らそこに向かっていきたいような気持ちにさせることができるような原体験を与えることができれば、実務を重んじる人からすれば笑われるような教育でも、それは大変な意味を持つ。技術や知識の教育は習ったその内容以上にはならないが、原体験は、習ったその時よりも、その後のその人の人生において大きくふくらんでくるからである。
商業高校での原体験を与えるには
おそらくはやりの全校を挙げての「〜デパート」といったような販売実習や、一部の生徒による商店街での実際店舗の運営などだけでは、このような体験を与えることは難しいだろう。それはお金に対する根本的な考え方・姿勢が変わらないまま、商売の最終的な責任も負わず、教員におんぶにだっこされながら、商売の根幹にはさほど影響がないところで、自分たちで自由に考えたつもりにさせてもらっているだけだからだ。
だから、ホームステイとは逆に、一見魅力的に聞こえ、実際に高校の客寄せ効果もあるのだが、このような方法では、宣伝通りの効能を得ることは難しい。地道ながらでも、お金や商売に対する考え方の根本から教えて、生徒の考え方の質自体を変えていく試みをしていくことが、なんと言ってもやはり望まれる。
高校での商売を教える困難
ただそこで問題になるのは、それを教えるべき立場にある教師自体が、自分で商売をしたこともなく、お金に対する考え方も、「雇われ人」の発想しか持てない場合が大半だということだ。
これはなかなか致命的だ。公務員は副業が禁じられているが、将来的には、「公務に支障を絶対にきたさない」という約束で、ある程度副業を認めるなどの措置も必要になのではないだろうか。
今現在の状況では、地道なことながら、『金持ち父さん貧乏父さん』などを読んで、教師たち自身が、自分に作っている意識の壁をまず努力して打ち破っていくことから始める以外に方法はない。
商売のプロは教育のプロではない
ただしここで誤解を招かないように、ちょっとだけ違う話を補足しておく。
教員は商売のプロではない。だからといって、それならどこかの「商売のプロ」を呼んできて、それですぐに良い教育ができるかとなるとそれはやはり違う。
何事であれ、何年もその道に携わっているプロの仕事をなめてはいけない。他の道のプロだからといってすぐに教育の世界でも通用すると考えるのは、プロの仕事をなめすぎだ。会社で通用する考え方や方法をそのまま持ってきて学校で通用すると考えるのも、考えが足りなさすぎる。
そういう点では、どこかの会社で業績を上げた人をすぐに校長にしようなどというのも、今時流行だが浅はかにすぎる。せめてそういう人は、3年でも良いから平の教員として教育に携わり、教育のプロになってから校長になってもらいたい。
自分の仕事に誇りを持っている人なら、素人が自分の上司に突然なって、考え方ややり方を変えろと言えば当然受け入れることなどできないだろう。それと同じことを、いちばんプロ意識を持たなければならない教育委員会が率先してやろうとするのだから、プロとしてのプライドがなさ過ぎるにもほどがある。