実務だけ教えてもなあ

実務だけ教えて事足りる時代は終わった

『学問のすすめ 』の帳合いの付け方

 福沢諭吉の『学問のすすめ』には、「読み書きそろばん」といった実用的な学問ができる人が身分が高く、尊い人となり、そうでない人は身分が低く、卑しいままで甘んじなければならないのだと述べられている。そして彼は商売をする人のために、「帳合いの付け方」を学べと勧める。
 「帳合いの付け方」とは、今で言えば、これは紛れもなく「簿記」のことだ。そして今の商業高校のカリキュラムも、おおよそ福沢諭吉が勧めた線で組み立てられているのだと思う。

現代は自営が当たり前の時代とは職業観が違う

 だが、ここで考えなければならないことは、福沢諭吉の時代には、自分で商売をするということが当たり前だったということだ。自分で商売をする。その時に、自分が読み書きをできなければ、他の人に頼らざるを得ず、その結果、結局商売を他人に依存させて、搾取されてしまう。そこを読み書きそろばんを自分ですることによって、自分の商売を自分で管理して、自立した経営者になろうという発想だったはずだ。
 他人に雇われるにしても、この時代には、「いずれは自分のお店(たな)を持って」というような夢を持っていたのではないだろうか。
 だが現代では、自営の人の割合は、他人に雇われて一生を終わる人よりもはるかに少ない。他人に雇われるにしても、「いずれは自分のお店を持って」というような夢を持って、そのための一つの布石として勤め人になると考えている人など、そうでない人に較べれば一握りのはずだ。

簿記を教えるだけではもはや片手落ちだ

 そのような時代に簿記を教えたとして、それだけでは福沢諭吉の考えるような自立につながるとはとても考えられない。ただ単に、就職した時、会社が再教育をする投資が少なく、便利に使いやすい安上がりの雇われ人を大量生産するだけのことにしかならないのではないだろうか。

財界人に商業高校のあり方を聞く愚

 商業高校の今後のあり方を考える為に、「経済界の人に学校に望むことを聞く」ということはよく行われることだ。だが、経済界の人が学校に望むこととは、極言すれば結局は、「自分達が手間をかけないですむように、使いやすい安上がりの雇われ人を大量生産してほしい」という内容になってしまうのではないだろうか。
 だから、「敬語ぐらいは正確に使え」て、「簿記もでき」て、「ワープロやエクセルの使い方はマスターし」てと好き勝手な要求になるのだと思う。
 本質的な能力を持った人間なら、一応一通りできても応用力の無い人間より、本当は会社にとっても有用なはずだが、財界人は即戦力よりも潜在的能力を持った人間の育成を、本当に高校に望むだろうか。実際に出てきた商業高校に対する要望を見ていると、とてもそのような考え方をしているとは思われない。
 まして、「会社で経験を積んで、いずれ自立しよう」などと考えるような人間を、本当に喜んで受け入れる経営者がどれほどいるのか、お寒い限りの状況だと私は思う。

高校ではこれから生きていく上での基本的な視点を身につけさせたい

 例えば特定の一企業の作ったワープロ(「word」とか「一太郎」とか)の諸機能を全て覚えたとして、それが、その人のこれから生きていく上での蓄積にどれほどなるだろうか。
 ある程度、ワープロにはこんな機能とこんな機能があるということを知っていれば、使うワープロが変わっても、マニュアルを自分で開いて勉強していけばいいのではないだろうか。
 むしろ生きる知恵とは、そのような自分で考えていく上で土台となる基礎的な考え方や自分で調べて問題を解決していこうとする姿勢を身につけていくことではないだろうか。
 エクセルは便利で、ちょっとしたことなら何でもできる。だが、これで何でもすることを教えるよりも、たとえば「データベースをエクセルで扱おうとするのは、やっぱり本来のやりかたからいえば邪道で、同じデータをあちこちコピーしまくって何でも好き勝手できる分、手違いによる誤りが起きやすいから、リレーショナルデータベースソフトとは違って、これで処理するのはいやだなあ」というような感覚を持てる人間を育てることの方が大切なのではないだろうか。
 今ではうちの学校でも、とうとう数年前から情報管理科でも、プログラム言語を全く教えなくなったそうだ。確かに、今時cobolができても、実質的には何の役にも立ちはしないだろう。
 だが、何の言語でもよいから、プログラム言語の初歩を身につけておくことは、コンピュータがどのようにして動くのかという、おあつらえのソフトにいくら精通しても身に付くことのない基本的な考え方を提供してくれる。さらに、一つの言語を身につけておけば、先のワープロの例ではないが、他言語を身につけようとする時には必ず指針になってくれる。
 だからこれを身につけておくことは、量的な違いではなく、質的に全く違う人間になることなのである。
 逆に、ホームページをつくるために少々HTMLができても、HTMLなどは所詮ワープロを難しくしたものにすぎないのだから、ワープロと、言語の基本的な考え方、ホームページサーバーの基本的な考え方を知っていさえすれば、全く習っていなくても、自学自習するのにさほどの困難はない。
 学校での授業時間など、社会に出るなどして自学自習する時間に較べればはるかにかぎられているのだから、教えなければ学びにくいような、本質的な内容だけに限定しなければ、かける時間がもったいないことこの上ない。
 何にしてもそうだが、今の教育は、流行を追いかけ、上っ面のできることを喜んで、本質的な質の違いを大切にしない。そのような時代にあっても、やっぱり大切なことは、それに流されないで、旧態依然だと言われても本質的な教育を目指すことだ。
 ただ、「旧態依然」は、その取り扱う内容の話であって、それを教える人間が、なぜその旧態依然なことを教えるのかという問題意識を持っていなければ、「旧態依然なくそ教育」になりかねないという危険性もはらんでいる。
 例えば英語の文法教育などもその類だろうと思う。しかし、これについては、また別のところでまた書くことにする。

自分で商売をしたいと思わせる教育が必要

 「パソコンの何を教えるか」というような細目よりも、より大きな、人の生き方に関わる部分について言えば、「雇われること」が普通になってしまった社会にあって、商業高校がしなければならない基本的な教育とは、「雇われる生き方」だけではなく、「雇う生き方」もあるという選択肢があることを教えることだ。
 「起業家教育」といっても、高校でできることは、実際のノウハウに関しては所詮ままごとにすぎない。そこで、なにか店をやらせて「実際に生徒に経営のまねごとをさせてます」と言ってみても、たとえ商店街で本当に客相手に商売をさせてみても、そのことが本質的な教育につながるかといえば、それはとても疑わしい。
 だが、その中途半端なまねごとの中でも、もし生徒が「雇われるだけでなく、自分で全部やる生き方もあるな」「大変かも知れないが自分でやってみたい」ともし考えるようになるなら、それはとても意義があることだ。
 大学に行くにせよ、会社に入るにせよ、高校を出て、実務的なことを学ぶ(学ばなければならない)場所はどこにでもある。だが、「雇われるか」「雇うか」といった根本的な生き方の違いを考えさせてくれる場所は、本当に数えるほどしかない。もし商業高校がその数えるほどしかない場所の一つになることができたとしたら、これほどかけがえのない場所はないのではないだろうか。

高校は中途半端だが、中途半端な中でこそできることもある

 「起業家教育」だ、「商業実践」だといった宣伝文句は、それ自体は魅力的に響くかも知れないが、内実の中身があるかどうかは知れたものではない。
 高校は中途半端な場所だ。商業高校だといっても、所詮総合的に学ばなければならない「高校」という枠組みの中での取り組みなのだから、大学・企業で学ぶのと同じ土俵で勝負をしていたのでは勝ち目はない。早々にぶっつぶしてより専門的なところに行かせようという発想になってもしかたがないところだ。
 だが、そのような中途半端なところだからこそ、まだ生きる方向の定まっていない若者に、新しい生き方の視点を示してやることができる魅力もまたあるのではないだろうか。
 やれ、「起業家教育」だ、「商業実践」だといって外見ばかりを追い求めるのではなくて、私は商業高校に、そのようなお金に関わる生きる姿勢を考えさせる場所として、是非生き残ってもらいたいと考えている。

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