自分を伝える表現の工夫

自分を正確に伝えるための「表現の工夫」

 文章の練習というと必ずいわれるのが、「表現を工夫しなさい」ということだ。表現の工夫をしなければならばならないということ、これはいうまでもなく非常に大切なことだ。だが、「どういうふうに工夫するのか。」ということになると、もうひとつ納得がいかない。
 「詩的な表現」という。「日常使われない、大げさな表現」のことだ。だがそんな言葉は、本当の意味での詩的な表現であるはずがない。
 詩は、自分独自の感情を、いかに正確に読者に伝えるかということに腐心(ふしん)するものだ。既存(きそん)の言葉の使い方、組み合わせで十分伝わるようなものならば、わざわざ詩の形式をとって訴えなければならない必然性はない。簡単に伝わるものをあえて回りくどく表現してみせて、「どうだ、偉いだろう。」と気取ってみても、これは全くの空威張(からいば)りにしかならない。
 だが、既存の言葉の使い方、組み合わせではどうしても正確に伝えることができない時、詩人は、それを越えてでも表現の工夫をしようとする。それが詩的表現の本来の姿だ。
 ところが、いったんできてしまった表現に、誰かが感動し、それをまねて使おうとする。そのとき詩的表現は堕落(だらく)する。つまり、内容を伴わない、大げさなだけの物言(ものい)いが残るのである。これがいわゆる「詩的な表現」の正体だ。
 さて、「表現を工夫する」に話を戻そう。表現を工夫するという時、この手垢(てあか)の付いた、大げさなだけの表現を求めてはいけない。「悔しさで唇をかんだ。」というような表現は、むしろ、表現の工夫を怠(おこた)ったところに現れるものだということを君たちは知るべきである。
 一般に、

内容を伴(ともな)わない時、表現が大げさになればなるほど思わせぶりになり、空疎(くうそ)な中身を読者にさらしてしまう

ことになる。同じことを言うのなら、表現自体は平凡であればあるほどよい(p3p43p48参照)。「独自な内容を、平易な言葉で、奇をてらわずに表現する」というのが一番難しく、またそれが一番読者の心を動かすのである。
 だから君たちは、自分のオリジナルなものをどうやったら正確に読者に伝えることができるのかという点で、表現の工夫を試(こころ)みてほしい。

※「いわゆる」を使いこなす

 「いわゆる」とは、辞書的には「世間でいうところの」「一般にいうところの」というような意味だ。本文のように、「自分では必ずしもそう呼びたいわけではないが、世間ではそう呼ばれている」というようなニュアンスで使う。うまく使いこなすと文章を引き締めるのに効果がある言葉だから、普段から実際の用例に注意しておいて、使い方を覚えよう。

(例)
筆者(私)は、いわゆる「形容動詞」を一つの品詞としては認めない。
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