「昔は・今は」

「昔は・今は」「昔に戻れ」
今日(こんにち)学校では「いじめ」が問題になっている。これについて論じようとして、君たちはすぐに、「昔は『いじめ』は少なかったが」というようなことを書きたがる。だが君たちは、本当に「昔」のことを知った上で、「今」と比較して論じているだろうか。実態を知らないのに、「今が・日本がいけないから」「昔が・アメリカがよい」というような発想をしてはいけない。このような比較をしようとする時には、少なくともある程度、「昔の」「アメリカ」の実体を調べた上で論じてもらいたい。
また、現代の日本の豊かさを論じようとすれば、たぶん、「今の物質の豊かさに頼った文明は、真の豊かさではない。」というような話になるだろう。だがここで、「だから、物質文明に頼るのはやめて昔の生活を見直そう。」という主張をしてみても、それほどおもしろい論文にはならない。
現代の物質の豊かさに頼りすぎた文明には、確かに底の浅いところはある。だがこれは、我々の先人(せんじん)がより豊かな生活を求めてやってきた結果なのである。だから昔の方がよかったといってみても、絶対元の昔に戻れるわけではない。
極端な話、物質の豊かさに頼らない「昔の生活」をお手本とするなら、原始時代の生活に戻るのが理想だろう。だが現実的な話、そんなことをしようと思う者は一人もいないはずだ。
だからこういうことを主張しようとする時には、必ず「どういうところで物質文明に頼るのをやめて、どういうふうな生活を目指すべきか」ということをかなり具体的に考えておく必要がある。
核家族化が進む現代の家庭のあり方についても、「大家族」であった昔を見直せといってみても、「それでは自分が、夫の両親、兄弟、祖父母のいる家に嫁(とつ)いでいきますか。」と聞かれて、「はい。」と答える人は少ない。そういうことをふまえた上で、自分には何がいえるのかということを考えよう。
昔に戻れという時には、「どういうところで、どこまで戻るのか。」を必ず考えるようにする。