自分にも責任がある

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自分にも責任があるものとして論じる

 新聞の文章の大半は、「意見を表立って主張する書き方をしない」文章だが、新聞の文章にも、意見を主張するものがないわけではない。たとえば、社説・コラム・名前入りの、書いた個人をはっきり示した文章(投書を含む)などがこれにあたる。
 ここでは、その内の社説を取り上げて、「筆者をどのような立場に置いて文章を書くか」ということについて考えておく。
 社説では、筆者が批判されるべき対象より一段高いところに身を置いて、神様のような立場から、「〜はこうすべきだ。」「改善を望む。」というような意見の主張の仕方をする。
 しかし、実際に自分の目の前の人間が、同じような言い方で何かについて論じているのをもし聞いたとしたら、君たちはどんな気持ちになるだろうか。「そんな、人ごとのように言って、自分はどうなの。」と思わないだろうか。
 社会の様々な関係の中で生きている私たちにとって、新聞のように、自分を批判される対象の圏外において批判できることなどはほとんどない。国の問題は、有権者として国に住んでいる我々の責任であるし、許すことができない数々の事件を起こす社会を容認してきたのもそこに住んできた私たちなのである。
 だから文章を書くときには、社説のような他人まかせ、あるいは他人に対する一方的な批判で終わってしまわないように、常に

自分にも責任がある(かかわりがある)

という立場から発想をするように心がけることが大切である。

※新聞で意見を主張する文章 コラムと投書

 コラムについては、二十ページで問題点を指摘したので、ここでは投書の問題点を考えておきたい。
 投書は、読者に新聞を身近に感じさせるための読者参加のコーナーだ。だから、投書は「多くの読者に、身近に感じさせる」内容の文章でなければならない。
 そのためにはどうするか。問題を深く掘り下げたりしないで、ごく普通のあまり物事を突き詰めて考えない人間が、ふと感じそうなことを、それとなく書くのである。
 新聞の読者(ということは日本のほとんどの人間)が実際そうなのか、あるいは新聞社が勝手にそう思いこんでいるだけなのか、投書欄には、読者が親近感を抱くのはこの程度だろうと見くびって、内容のつめもほどほどで、文体も話し言葉に近いものがわざと採用されている。
 だから、新聞の投書を読んで、「ふむふむ。その通り」と納得して同じことを書いていたのでは話にならない。そこに書いてあるのは、断片的な生活感覚からの、あまり裏付けのしっかりしていない意見であるから、投書を参考に論文を書く場合は、そこで書かれていることの裏付けをもう一度深く考えなおしてみたり、反対意見を見直してみたりして、深く問題をとらえ直す作業をしなければならない。
 たとえば投書を、反論を考えるための訓練材料として使おうと主張する参考書もある。投書はもともと深く掘り下げた文章ではないから、反論もやりやすく、そのような使い方をするには適しているといえるだろう。

※新聞を参考にする時には

 新聞の文章は、社内の人が書いた文章と、社外の人が書いた文章という風にも分類できる。前者が、ほとんどの記事・社説・コラム、特集記事、後者が投書や書いた専門家の名前入りの文章だ。ここまでの説明で分かったように、君たちが文章の書き方をまねていいのは、この内の「書いた専門家の名前入りの文章」だけである。ということは、これは純粋には新聞の文章という枠には入らない文章だから、新聞の文章は全部、文体や書き方をまねてはいけないということだ。
 特に、新聞の社説やコラムの要約を宿題として課されたことがある人は、それぞれの文章の弊害までまねしてしまう傾向にあるから、十分に注意しよう。
 とはいえ、新聞は、物事についての見方、社会で起こっている出来事など、論文や作文に書く素材集めをするには欠かせないものだ。特に文化欄や特集記事は、あまり自分に関心のない分野でもなるべく読むようにしておくと、知識の幅が飛躍的に広がり、文章を書くための手持ちの材料が増える。(p9参照
 以上のような新聞を参考にする場合の陥りやすい弊害をしっかり把握して、有効に使いこなしてほしい。

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