どう論じるか
自分の立場を明らかにする
文章の論じ方について注意しておかなければならないことを、新聞の文章を例にとって、以下の二項で解説する。
一つ目は、文章を書くときの筆者の立場の見せ方である。
新聞は、「社会の木鐸(ぼくたく)」を気取って、偏(かたよ)りのない正しいことを言っているという姿勢を装(よそお)っているふしがある。だから「書いている筆者」というものをなるべく意識させないような書き方をする。
たとえば、一般の記事では意見を主張するような書き方をしないのはもちろんのこと、たとえ何か意見に触れるような場合でも、「私は〜と思う。」というような言い方はしないで、「〜が〜と言っている。」というような表現をして、さも客観的な立場から意見を紹介しているかのように装うことが多い。
だが、おおよそ人間の見方には、「どの立場にも属さない中立」などということはありえない。いくら中立を装った書き方をしても、多くの事実の中から何を取り上げるか、誰の意見を書くかによって、文章が読者に読みとらせるものは全く違ってくるのである。
新聞の記事を数紙見比べてみるとよい。一見中立で正しいことを書いている新聞が、同じことについてどれほど違った論調で取り上げているかということに、君たちはきっと驚くに違いない。
「文章を書く」とは、本来、そのことについて「自分の立場、姿勢を明らかにする」ということだ。自分がある一定の立場から意見を述べていることをわざと隠そうとする新聞のような文章の書き方は、意見を述べる者の責任を放棄したものであるから、君たちはこのような書き方を絶対にまねてはならない。
※言葉に敏感に
この本では、君たちの知りそうにない言葉、たとえば「木鐸」などをわざと意味の説明をせずに使っているところがある。
ここを読んだ時、君たちはどうしただろうか。読み書く、そして考える上での一番の基本は、「言葉を大切にし、分からないことをおざなりにしない」という態度である。そのことを肝に銘じておこう。
これを簡単に言うと、「辞書を引け!」ということだ。
※論文と小論文
「論文」という時、「学術論文」と「何かについて自分の意見を述べるもの」とがある。
このうち学術論文については、意見を主張しても、客観的な論拠を前面に出して、それを主張する個人をなるべく感じさせないような配慮をする。そして筆者のことを呼ぶ時には、「筆者は」という。学術論文は、誰もが認めるべき真理を述べようとするものであり、「私」という個人の立場によって結論が左右されるようなものであってはならないから、文章を書くときにもそういう配慮をするわけだ。
同じ「論文」とはいっても、「何かについての自分の意見」を述べるものは、別に普遍的な真理を述べようとするものではないから、それを書いている筆者を前面に出して、「私の意見はこうだ」と主張すればよい。この場合、筆者のことは「私」と呼ぶ。
小論文は、当然後者であるから、君たちもそれを書いている自分を前面に出して、はっきりと自分の意見を主張しよう。