道徳的な「正しい」こと
道徳的な「正しい」こと
誰もが正しいと認める、道徳の時間に君たちが答えたような内容を小論文の結論にしてはいけない。
たとえば、公共の場での携帯電話の使用をやめよう、環境を考えて合成洗剤の使用をやめ、使い捨てをしないようにしよう、いじめはいけないと主張してみても、「何を今さら」という思いを読者に抱(いだ)かせるだけである。そして、本人が本気で説得しようとすればするほど、どんどん主張がしらじらしくなっていくのである。
それは、これらのことは改めて論じるまでもなく当然のことだと誰もが認めるのに、それは建て前としてであって、本音では、多くの人が「自分が改めて本気で取り組まなくてもさほど大勢(たいせい)に影響はない。」と感じているからである。
たとえば「携帯電話の使用」について考えてみよう。先日ある総合病院で携帯電話を使っている人を見かけた。これは、「バスの中で、もしかしたらペースメーカーをつけている人がいるかもしれない」などというような可能性の低い場合ではないはずである。にもかかわらず、その人は平気で携帯電話を使い、周りにいる人たちもそれを注意しない。
ところがたとえば、禁煙席でたばこを平気で吸っている人がいたらどうだろうか。誰かが注意するか、注意しなくとも眉をひそめる人が多いはずだ。
このような違いは、結局、世間の人がどれだけその必要性を実感しているかどうかにかかっている。つい最近までは、人前でたばこを吸うのに何の遠慮もしない人が多かった。それが、この頃のように喫煙に対する人々の意識が高まってきたのは、「副流煙(ふくりゅうえん)」の害について皆が知識を持ったとかマナーを守る人が増えたとかいうよりも、むしろ「他人のたばこの煙を吸わされて嫌だ」と思い、それを主張する人たちが増えてきたという事情による。
このように、道徳的には正しいと認められていても、それがあまり実行されていないというのは、結局皆がそれをきれいごととしてとらえていて、その必要性をさほど実感してはいないからなのである。
だからこのようなテーマで議論をうわっつらなものにしないためには、「建て前」を「建て前」だけには終わらせないで、「みんながきれいごととして持っている常識が、なぜ実感にならないのか。」「実感になるためには何が必要なのか。」と考えてみて、「みんなの考えに足りないもの」を探していくことから始めなければならない。
そして、「なぜ実感にならないのか。」ということを出発点として文章を考えていく時には、一度、「それは本当に必要なのか。」というように、世間の常識を疑って考えておくと、論点がよりはっきりする。それでもし「必要ではない。」ということになれば、独創的な視点から論文を書くことができるし、「やっぱり必要である。」ということになっても、そこで考えたことをヒントにして文章を書いていけば、建前を疑わないでそのまま主張していくのとは全く違う、説得力のあるよい文章が書けるはずである。
世間の人が建て前としてしか認めないことを論文の結論にしない。そのようなことを論じる場合には、それがなぜ本音にならないのかというところから考え始める。