主張への部品-各段落5

主張に向かう部品としての各段落5

 改稿前の例六と例六改とではどちらが優れているだろうか。

例六
 高校に制服は必要だろうか。
 確かに、制服を強制されると個性は発揮できない。しかし、果たして高校生が服装によって個性を発揮することが必要だろうか。むしろ個性とは、学校での勉強や部活動の取り組みの中で発揮するものではないだろうか。
 制服を決めることによって、学校に統一感が出る。毎日何を着ていくか悩まなくてすむ。高校生に必要なことは、愛校心を持って、勉強や部活動に取り組む中で個性を育てていくことだ。
 だから、私は高校に制服は必要であると思う。

 

例六改
 高校に制服は不要だろうか。
 確かに、制服を強制されると個性は発揮できない。しかし、果たして高校生が服装によって個性を発揮することが必要だろうか。むしろ個性とは、学校での勉強や部活動の取り組みの中で発揮するものではないだろうか。
 制服を決めることによって、学校に統一感が出る。毎日何を着ていくか悩まなくてすむ。高校生に必要なことは、愛校心を持って、勉強や部活動に取り組む中で個性を育てていくことだ。
 だから、私は高校に制服は必要であると思う。

 例六と例六改とでどちらが優れているのかはすぐに分かるだろう。例六改のように、「高校に制服は不要だろうか。」と問題提起をすることによって、筆者の「高校に制服は必要だと思う。」という主張を読者に匂わせる。それに対して起こってきそうな読者の反論を「確かに」の所であらかじめ先回りして、「しかし」以降で「やっぱりその反論は本質的なことではない。」というように話を進める。このような文の流れを作り出すのが、「確かに〜しかし〜」の本来の使い方なのである。
 君たちはここまでの添削例で、部品一と部品三とを同じ意味の表現だと勘違いしていたかもしれない。しかし部品三を使った文章のように、読者が考えそうな意見の方向性がはっきりと定まらない文脈の中では、「確かに必要(不要)だと考えることには一理ある。」というような表現で、ある特定の意見の読者に対してだけ特別な配慮をしなければならない必然性はないのである。例五・例六改のように、筆者の主張が明確にされ、読者の反論の方向性が決まっているからこそ、「確かに」以降の部分であらかじめそれを先回りしておく表現が生きてくるのだということを感じ取ってほしい。

「確かに〜しかし〜」の表現は、「確かに」の前までのところで、「読者が抱くとすればこのような反論になるはずだ。」という反論の方向性がはっきりと決まっている時に有効に応用できる。

 ここまで長々と説明してきたこの添削例もこれで終わりである。結論としては、これらの例では、例五・例六改のように書くか、あるいははじめから筆者の主張をより明確にした部品四、部品五のような表現を使って、次の例九・十のように書くかすれば、最初から最後まで一つの流れをもって展開するよい文章になったのである。

例九
 私は高校に制服は不要だと思う。
 確かに、制服があれば学校全体の統一感が生まれる。
 しかし、高校生といえば、もう、一つの人格を持った大人である。この様々な人格を持った人間が集まっている高校で制服を決め統一するということは、人格の違いを認めず、一つの制服のもとに個性を押しつぶしていることに他ならない。このように、個性を押しつぶして手に入れられる統一感など、むしろ高校にはない方がよい。
 だから、私は高校では制服を決めるべきではないと思う。

 

例十
 私は高校に制服は必要だと思う。
 確かに、制服を強制されると個性は発揮できない。しかし、果たして高校生が服装によって個性を発揮することが必要だろうか。むしろ個性とは、学校での勉強や部活動の取り組みの中で発揮するものではないだろうか。
 制服を決めることによって、学校に統一感が出る。毎日何を着ていくか悩まなくてすむ。高校生に必要なことは、愛校心を持って、勉強や部活動に取り組む中で個性を育てていくことだ。
 だから、私は高校に制服は必要であると思う。

※一字にこだわる

 論理展開に関わるほどの大きな問題ではないためこれまで説明しなかったが、「確かに」の中の文章が、例六以降何の断りもなく、「個性を発揮できない」から、「個性は発揮できない」に変わっていることに君たちは気づいただろうか。
 たかが一字を換えただけなのに、文章の印象はがらりと変わってしまう。この例では、「は」にすることで「個性の発揮」を特別に取り上げ、それ以外にはよいところが多いことをほのめかしておいて、その「個性の発揮」についても本質的な議論ではないと切り返していくことで、すばらしい論の流れになるのである。
 推敲の段階では、このようなところにまでこだわって添削してほしい。

※賛成でも反対でも文章のレベルが同じなら評価も同じ

 例九・例十の文章について君たちはどのように評価しただろうか。たぶん例九を例十より高く評価した人が多いのではないだろうか。
 だがこれらの文章は、「問題のとらえ方の正確さ・深さ」も、「論理展開の厳密さ」も全く同レベルだ。だから、小論文としての評価は同じになる(p12参照)。私なら合格点を七十点として、八十点くらいをつけるところだろうか。
 なおこれらの例文では、一行で一段落になっている所がある。文章の骨組みだけを示した例なのでこうなっているが、実際の文章ではこれがもっと肉付けされるため、一文が一段落になるというわけではない。

※「確かに〜しかし〜」と似た使い方の表現

 「確かに〜しかし〜」と似た使い方をする表現に、「なるほど〜しかし〜」「もちろん(むろん)〜しかし〜」などがある。「なるほど〜しかし」はほぼ「確かに〜しかし〜」と同じ使い方、「もちろん(むろん))〜しかし〜」は、一般に考えられる前提を「もちろん」以下で「当然のことだ。」と受け入れておいて、「しかし」以降で、それを踏まえながら、不足点を補足したり、一般に認められている考え方の問題点を指摘したりするような使い方をする。
 これらはいずれもあらかじめ予想される読者の意見を先回りする表現であるが、「確かに」「なるほど」の場合は、そこで認めることに対して、筆者があまり本質的だと考えてはいないのに対して、「もちろん」の場合は、「当然だ。」と筆者にかなり尊重する姿勢が見られる点が違う。
 教科書などでこれらの表現を目にした時に、折に触れて正しい使い方を研究しておこう。

例一
 これからの英語の教育では「会話」を重視するべきだ。なるほど、会話重視では本格的に英語を使えるようにはならないかもしれない。しかし、それでも文法を気にしすぎて全く英語を使うことができないよりはましである。
例二
 今日話題にされることの多い「ゆとり教育」には問題点が多い。
 もちろん教育にゆとりが必要なことは言うまでもない。しかし、詰め込みの教育法を変えないまま、教育内容を減らし、進度を遅くするだけの教育を、私たちは果たして本当に「ゆとり教育」だと呼んでもよいのだろうか。
 むしろ、教育における「ゆとり」とは、〜。
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