主張への部品-各段落1

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主張に向かう部品としての各段落1

 次にあげる二つの文例が、果たしてよい文章であるかどうか考えてほしい。

例一
 高校に制服は必要だろうか。
 確かに、制服があれば学校全体の統一感が生まれる。しかし、制服を決めるべきではないと私は思う。
 高校生といえば、もう、一つの人格を持った大人である。この様々な人格を持った人間が集まっている高校で制服を決めるということは、人格の違いを認めず、一つの制服のもとに個性を押しつぶしていることにほかならない。
 だから、私は高校では制服を決めるべきではないと思う。

 

例二
 高校に制服は必要だろうか。
 確かに、制服を強制されると個性を発揮できない。しかし、私は制服は高校に必要だと思う。
 制服を決めることによって、学校に統一感が出る。毎日何を着ていくか悩まなくてすむ。高校生に必要なことは、愛校心を持って、勉強や部活動に取り組むことだ。
 だから、私は高校に制服は必要であると思う。

 右の二つの文例は、書いていることに間違いはないし、第三段落目の主張に説得力があるため、文章のおかしなところに気がつかない人も多いはずだ。だが、これらはどちらも、「文章を構成する各要素を、その主張に向かうための材料として述べていこう」という意識に欠けている。
 この二つの文例はともに、二段落目が予想される反論、三段落目が自分の意見になっている。そして三段落目は、二段落目の主張より、読者を説得できるだけの理由をより多く並べている。そのため、「二段落目で主張されたようなことがたとえあったとしても、三段落目で書いたことの方がはるかに重要だ。」とか、「二段落目のような主張は表面的な議論にすぎない。」とかいうふうに筆者が文中で明確に主張しなくても、親切な読者なら、それらの関係を勝手に考えてくれて、勝手に納得してくれる。
 だがそれは、筆者自身が二段落目の主張と三段落目の主張とを天秤(てんびん)に掛け、それを整理して主張した結果ではない。
 「確かに」ということは、そこに書かれたことを「確かにそうだ」と認めるということだ。だからそこで認めた反論について、もし筆者が自分の立場からの見解を何も述べないとすれば、それはむしろ自分の意見には反論する余地があると自分で認めているのと同じことなのである。
 この「確かに〜しかし〜」という言い方は、本来、予想される反論のうちで認めてもよいものをあらかじめ認めておいて、それを認めてもなお主張できる本質的な問題を話題にすることで、文章に説得力を持たせる言い方だ。
 だからこの言い方をする時には、「確かに」で認めた反論が、筆者の論を否定する根本的な根拠にはなり得ないことをきちんと説明しておくことが絶対条件になる。
 「字数稼ぎに反対意見を並べてはみたが、それについてはわしゃあ知らん。」というような無責任な文章にはならないように、君たちは、書いたことが主題に向かうための部品となるような文章を心がけてほしい。

「確かに〜しかし〜」
「確かに」で書いた反論を認めた上で、それに対して何を主張できるかが決め手。

 だから、先の例文は、少なくとも次のような文章になっていなければならない。

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