文章の組み立て方
文章構成の仕方
文章には筆者の述べたいこと、すなわち主張が必要である。文章を書くとはその主張を読者に納得してもらうために必要な考察を積み重ねていくことである。
だから、文章を構成する各要素はすべて、当然その主張に向かうための材料になっていなければならない。主張に必要でないものはすべて省(はぶ)き、なるべく最短距離で主張にたどり着くように、過不足(かぶそく)のない論を展開するように工夫する。
文章を構成する各要素は、主張に向かうための材料である
君たちの文章には、思いつくままをずらずら書き並べて、最後が尻切れとんぼで終わっているようなものが驚くほど多い。それは、君たちが何を説明するために、何を部品として書いておくべきかということを考えておいてから文章を書き始めないからである。
だからたとえ試験の時のようにあまり時間を取れないような場合でも、課題が与えられてすぐに書き始めてはいけない。三分でも五分でもよいから、そのテーマで何が書けそうかを考えてみるのである。そして、その段階で結論が先に思いついた時は、その結論を導くためにどんなことを述べていくべきかを考える。
また、結論がすぐに思い浮かばない場合でも、そのテーマに関係することを様々に思い浮かべて、それらの材料を基にどのようなことを結論としていえるかを考えてみる。このようにして、いずれの場合でも、材料を並べる順番とたどり着く結論くらいは、文章を書き始める前に見通しを立てておくようにしなければならない。
この段階で気をつけなければならないことは、思いついたことをすべて文章に書き込もうとしないことだ。魅力的な思いつきであっても、論旨を展開する上で取り込めないものは、涙を飲んで書くのを断念する(p32参照)。
そして、いざ書く時には、ある一つのまとまった内容に一つの段落を割り当て、段落を積み重ねていくことで一つの文章を組み立てる。
段落は、改行して一字下げて始める。二つ三つの内容を一つの段落で書いてしまうと、読者は内容を把握しづらい。
逆に、むやみやたらと行を変えて段落設定をするのもよくない。たとえば一文ごとに行を変えるというようなことは、それぞれの文の内容が全部別であるということだから、文相互の関係を考えた文章にあるはずがない。こういうのは文章構成をきっちりやろうという気持ちがない時、思いつくままふわりふわりとつなげて書こうとするとよく現れる。
段落
一つのまとまった内容に一つの段落を割り当て、一字下げて書き始める。
一つのまとまった内容に一つの段落を割り当て、一字下げて書き始める。
ところで、この一つの段落にする時の「一つのこと」というのは、思いつく項目の一つという意味ではない。たとえば、あることについての「よい点」「悪い点」をいおうとする時、ひとまとまりの思考でよい点・悪い点の双方についていえる時は、それで一つの段落になるし、よい点がいくつもあって、これについてはこう、あれについてはこうというふうに思考が展開していく時には、そのそれぞれに一つの段落を割り当てる。
人の頭にはひとまとまりの思考で一度に考えられる範囲というものがある。複雑に絡みあっている事柄についての考察であっても、人はその最初から最後までを一時に頭に思い巡らせているわけではない。その構成要素の一つ一つにスポットを当て、それに対する考察を積み重ねていくことで、壮大な思想も生まれてくるのである。
そのような思考を重ねていくための基本の単位が一つの段落である。これを必要に応じて、言いたいことを読者に納得してもらえるように構成する。
文章の構成を考える時には、以上のことを強く意識し、よくいわれる「起承転結」とか、「序論・本論・結論」とかの型はあまり気にする必要はない。君たちが普通読む文章は、そのような型で説明のつかないものがほとんどであるはずだ。たとえそのような説明がつくものであっても、書いたものを後から見ればそうも説明できるというだけのことであって、書く時にそのような型を想定していたわけではない。
しかしそう突き放されてはどうしても不安だという人は、序論・本論・結論のパターンで文章を書くとよい。序論で問題設定し、本論で数段落にわたって論を展開し、最後に結論を述べるという型がいちばん無難に使えるはずだ。(p29参照)
※改行して一字下げない時
君たちの文章を見ていると、改行したのに一字下げずに文章を始めることがある。これは、文章がつながらないから改行するが、しかし、別のことを言い出したわけではないという意識が働くからなのだろう。だがもしそうだとすれば、そのような文章になること自体が文章になっていない証(あかし)である。
改行したのに字下げをする必要がないのは、文の途中で改行し、二字下げにして長文を引用した後、文の続きを書く時だけだ(p4参照)。
※新聞のコラムの文章構成
新聞のコラム(「天声人語」、「編集手帳」など)を名文の見本のようにいう人もいる。しかしこれは、ちょっと疑ってかかった方がよい。
右で説明した「文章が備えるべき要件」について、段落がえがされている▼の前後の段落同士の関係を考えながら、ちょっと本気で検討してみれば、コラムには段落同士の関係がきわめてあいまいで、何となくつながっているものが多く、しかもその多くが、いろいろな考察を加えはしても、結局はその文章全体を使って主張するべき内容を持たないということにすぐに気がつくだろう。
コラムには、▼を適当に使いながら、ふわりふわりと文章をつなげていき、これといった言いたいこともないのに、「ものをしっかり知っていて考えているぞ」ということを示すために、思わせぶりなことをいろいろ書き散らして終わりにしているものが驚くほど多いのである。
だから、そんなコラムはありがたがってはいけない。
もしコラムを参考にするなら、主張と論理展開とを吟味して、「文章」と呼ぶにふさわしいものを見習うべきだ。またはだめなコラムなら、どこが「文章」としてだめなのかを検討するために使うこともできる。
これを要約しなければならない場合も、何も考えずにすると元々が雰囲気でつながっていてこれといった言いたいことがない文章が多いから、極端なことをいうとどの断片を適当に抜き出しても要約したことになってしまう。本文の雰囲気でつながっている論理と主張について、段落相互の関係を自分で考えて、思考の筋道を立てる練習をするように心がけよう。