やっぱりおかしい

樋口の文章観はやっぱりどうも違うんじゃあないかなあ

文章が首尾一貫していない

 『ウケるブログ』のネタ本になったということを知って、少しは期待しながら、樋口裕一氏の『人の心を動かす文章術』を読んでみました。これは、はじめの方に学生が書いたひどい文章の例を載せて、「私ほど下手な文章を大量に添削した者はいないだろう」などと言っている割には、全く作文能力のない者に文章の書き方を教えるというよりも、ある程度思考力、文章力のある人に向かって、筆者の考える所の作文技術を教える本のようです。
 これを読んで、『ホンモノの文章力』の時ほどには違和感を感じなかったものの、樋口氏の考える良い文章というのは「やっぱり違うんじゃあないかなあ」と思ってしまいました。
 私は出版社から本を出したり、人気になる文章を書いたりするような人間ではないので、そんな高尚な意味で「良い文章の基準が違う」などと言おうという気は毛頭ありません。
 私が文章を読むとき一番大切にしていること、そして読むに足りる文章として最低限これだけは備えていてほしいと考えていることは、文章に伝えたい内容があって、それを伝えるために、その文章を構成する要素すべてが、部品として必要な場所に収まっているということです。
 これは「人の心を動かす」とか動かさないとかいう以前の問題として、文章としての役割を果たすためには、すべての文章が、最低限備えていなければならない条件のはずです。
 ところが、上掲の本に樋口氏がかなり自信を持って載せていると思われる例文は、やっぱりその最低要素すら満たしているかどうかあやしいものなのです。

とりあえず添削後の文章を検討

【修正例
 きれいなものでも、きたなく見えることがある。
 中学生のころ、私は高台の家に住んでいた。町並みが見え、その向こうに小さく海が見えた。夕方になると、私はしばしばうっとりとして夕日に輝く海を見て過ごしたものだ。ところが、ある日のこと、友人の家を訪ねたついでに、足を延ばして家から見える海辺に行ってみた。海岸には大量のゴミが散らばっていた。死んだ魚があちこちに捨てられていて、ハエがたかっていた。海面にもビニールが浮かんでいた。それはそれはきたない都会の海だった。
 その経験をしてから、すでに十年以上がたつ。そのときは、遠くからきれいに見えるものも、近寄ってみるときたないことがあるのだとだけ思っていた。だが、最近感じるのは、きれいとかきたないとかは、見る人によってちがうこともあるのではないかということだ。友人と美術館に絵を見に行ったことがある。誰の絵だったか忘れたが、ニューヨークの街角を描いた油絵だった。私はそれを見て、きたないと思った。下町の汚れた情景だった。ゴミがあり、汚れた壁がある。町に生きる貧しげな人々が描きこまれている。ところが、友人はそれを感動して見ている。どうやら、友人はこの絵をきれいと思っているようだ。友人の様子を見るうちに、絵の表面ばかりを見て、「きたない」と思った自分が恥ずかしくなった。そして、じっくりと絵を見てみた。たしかに深みのある良い絵に見えてきた。都会の裏通りで生きる人々の姿が哀歓をもって描かれている。きれい、きたないは客観的にあるわけではない。人によっても、遠くから見るか近くから見るかによっても、どんな予備知識を持って見るかによっても異なるものなのだ。
 私の心の中にも、きれいな心ときたない心がある。それが人間というものだろう。だが、もっと問題なのは、同じものが、人によって、きれいに思えたり、きたなく思えたりすることなのではなかろうか。人間の感性とはつくづく厄介なものだと、私は思う。(『人の心を動かす文章術』P24)

 この文章は、添削の元になった文章が、「構成がよくない。それぞれの段落が有機的に結びついていない。なぜ、その段落でそのようなことを書いているのかがわからない。」ということを踏まえて、「ある程度読むに堪える」ものになるように、樋口氏が書き改めた文章です。
 しかし、この文章で、本当に「段落が有機的に結びついている」と言えるのでしょうか。
 一番分かりやすいところから検討するとして、三段落目の最後の方「きれい、きたないは客観的にあるわけではない」以降最後の部分までの部分に注目してみましょう。
 最後の段落の、「私の心の中にも、きれいな心ときたない心がある。それが人間というものだろう。」ですが、どこからのつながりで、どのような目的のためにここに入れる必要があるでしょうか。思いついたように、「私の心も」と言い出して、「それが人間というものだろう。」というようないかにももっともらしい、しかしとても安直な感想を引き出し、まあ、それは百歩譲って許すとしても、「だが、もっと問題なのは」と、そこで書きかけたことをまたうち捨てて、「同じものが、人によって、きれいに思えたり、きたなく思えたりすることなのではなかろうか。」と一つ前の段落に書いたのと似たような内容を続けます。
 文章を書く場合、「大事なことほど先に書く」というのが大原則です。このような、「だが、もっと問題なのは」と、話の本筋をひっくり返すような文章では、読まされる方がたまりません。

この文章で筆者が訴えたいこととは

 ところで、この文章を通して筆者が読者に伝えたいことは何なのでしょうか。考えられることは、

1.きれい、きたないは客観的にあるわけではない。
2.同じものが、人によって、きれいに思えたり、きたなく思えたりする
3.人間の感性とはつくづく厄介なものだ

ぐらいでしょうか。
 1なら、まあ何とか、「そんなものかな」と理解できる範囲でしょうか。細かくいえば、遠くから見たとき綺麗に見えても、近くで見ると汚いことがある」という例が、果たして「きれい、きたないは客観的にあるわけではない」に本当につながるのかは検討を要するところですが、まあ筆者によいように考えれば、そうも考えられないことはないので、ここではそれは問わないことにします。
 ただしそれを全く問題にしなくても、本当にこの1を書きたいのなら、最後の段落はいりません。というよりも、最後の段落は絶対に書いてはいけません。
 2を書きたいのなら、第二段落の例が全く不要になるのではないでしょうか。「同じものが、人によって、きれいに思えたり、きたなく思えたりする」というのは、実は第三段落の例しかふまえていません。
 1と2は、同じことを言い換えているようでいて本当は言っていることが違っているのです。
 3を筆者が言いたかったと思う人はたぶんいないでしょう。これも三段落の例しかふまえていません。
 最後の段落を筆者が書こうとしたのは、おそらく、三段落目までで終わったのでは何となく物足りないような気がして、3のような「気が利いた」と受け取られそうな、しかし実は全く内容のないセリフを締めの言葉に持ってこようとしたためです。
 ところが、どう結びつけようとしても、三段落目からすぐに3に結論を持っていくわけにはいきません。そこでおそらく、書いている本人も論旨がずれていることに気づかないまま言い換えた部分が2なのです。
 これが、前の段落で変な構成になっていると指摘した、四段落目のような文章がこの添削例に付け加わった理由でしょう。

「起承転結」のとらえ方も気になるところ

 樋口氏は、氏の考える「起承転結」の構成を説明して、上の文章はそれを当てはめたもので、この文章では、形式段落が、そのそれぞれに対応していると説明しています。(『人の心を動かす文章術』P56)
 ところが、上の説明でも分かるように、第四段落はそこまで書いてきたことの「まとめ」にはなっていません。
 むしろ三段落目に、「きれい、きたないは客観的にあるわけではない。人によっても、遠くから見るか近くから見るかによっても、どんな予備知識を持って見るかによっても異なるものなのだ。」ともってきたところは、さすがだなと私はこの添削例を見て感じています。
 二段落目で述べた例と、三段落目で述べた例は、どこかでそこに共通する部分を見つけていかないと一つの文章としては破綻するほど、話の流れを素直に納得してもらえるとは言い難いものです。その意味で、三段落の例は、「承」の部分を受けながら、話を全く転換しているわけです(転)。そこを何とか「こんな話だよ」とまとめている、すなわち「結」の部分になっているのが、「きれい、きたないは客観的にあるわけではない。」以降の部分です。ですから、起承転結の段落構成の考えからいっても、氏のように三段落目を一つの段落にしては絶対にいけないのです。「きれい、きたないは客観的にあるわけではない。」の部分以降を次の段落にすることで、文章の構成がよりはっきりと段落に反映されることになります。
 結局、この添削例の様な文章で落ちつけようとするなら、「きれい、きたないは客観的にあるわけではない。」の部分以降を次の段落にして、四段落目をばっさり削って、一応の文章の体裁を整えるてみるというようなことになるのでしょう。

「添削者の主観で添削してしまうこと」については次頁で

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