添削者の主観

添削者の主観で添削してしまう

 前頁の、樋口裕一氏の『人の心を動かす文章術』の添削例で、この添削の元になった文章を載せませんでした。しかし、これを書いた人は、作文塾に通おうとするだけのことはあって、流石、かなりな作文力を有している人だと私は思います。
 そのような人が、前頁の樋口氏の様な添削を見せられて、ありがたがって指導を受け入れていることが、今の日本の作文界の大問題なのです。
 私に言わせれば、元の文章と、添削後の文章とでは、文章の完成度はさほど上がってはいません。私が添削したら、いずれも65点の不合格レベルですかね。
 あえて言えば、元の文章からはどう考えても出てこない最後の締めの発想を、添削者が勝手に付け加えてしまったがために、文章の支離滅裂さは、添削後の方がむしろひどくなっています。
 逆に、3段落目の、「きれい、きたないは客観的にあるわけではない。人によっても、遠くから見るか近くから見るかによっても、どんな予備知識を持って見るかによっても異なるものなのだ。」というのが、元の筆者が書こうとして、書ききれなかった部分ですから、筆者の発想の延長線上で、こういう風に、どこまで文章の内容をまとめ深めていくことが出来るのかということを考える作業が添削です。
 筆者の元の発想を最大限に生かそうとすれば、私が前頁で指摘したような添削のあたりでやめるべきで、元の筆者の書こうとした流れから逸脱した、添削者が勝手に付け加えた最後の段落は、全く不要ですし、むしろ、それがあるために、文章が余計おかしなことになってしまっています。
 以上説明が大分長くなりましたから、添削者が筆者の発想を軽視して添削してしまうことの問題点については別の頁でもう少し掘り下げて考えることにしましょう。

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