素材を主張につなげる構成力
素材を主張につなげていく構成力
元の文書をを検討
前頁の樋口裕一氏の添削の元になった原稿を検討してみましょう。
2 きれいなものとは何だろうか。「心がきれいな人」とよく言われる。子どものころ、「心のきれいな人になりなさい」といわれたものだ。思春期のころは、「外見にごまかされずに、心のきれいな人と結婚するのが一番幸せだ」とも言われた。
3 私は、心のきれいな人に会ったことがない。心のきれいな人と思っていても、付き合ううちにわがままなところや邪なところが見えてくるものだ。お年寄りが駅の自動販売機を使えないために、長い行列ができたとき、親友だった人がそのお年寄りを「くそ婆」と言ったので落胆したことがある。顔がきれいだと心もきれいに見えるが、そうでないことも多いのだ。これもまた逆のことがあるだろう。
4 しかし、きれいとかきたないとかは、見る人によって違うこともあるのではなかろうか。友人と美術館に絵を見に行ったことがある。誰の絵だったか忘れたが、私はその絵をきたないと思った。ところが、友人はそれをきれいだといって感動して見ていた。
5 私の心の中を見ても、きれいな心ときたない心がある。それが人間なのだろう。私はこれから、きれいな心を持って生きたいと思う。(『人の心を動かす文章術』P21)
この文章は、樋口氏が言うように、「素材としては面白いものがあ」ります。しかしその素材を使って自分が何を言うべきなのか、しっかりと吟味ができていないので、文章としては支離滅裂になっています。
でも、これを前頁の樋口氏の添削例の様に書き直してしまうと、元々の、人の心理を考えようとする良さが消えてしまうので、それを消さないように、添削を工夫していかないといけません。
あなたなら、どのように添削しますか。
とりあえず添削してみよう
4 きれいとかきたないとかは、見る人によって、また、見方や視点によっても変わってくるものだ。友人と美術館に絵を見に行った時のことだ。誰の絵だったか忘れたが、私はその絵をきたないと思った。ところが、友人はそれをきれいだといって感動して見ていたということもあった。
2 「心がきれいな人」とよく言われる。子どものころ、「心のきれいな人になりなさい」といわれたものだ。3 だが、私は、 純粋に心のきれいな人というものに会ったことがない。心のきれいな人だと思っていても、付き合ううちにわがままなところや邪なところが見えてくるのだ。お年寄りが駅の自動販売機を使えないために、長い行列ができたとき、親友だった人がそのお年寄りを「くそ婆」と言ったので落胆したことがある。顔がきれいだと心もきれいに思ってしまいがちだが、そうでないことも多い。そして、これもまた逆のこともある。
5 一人私の中を見ても、きれいな心ときたない心、きれいな部分と汚い部分がある。それが自然のあり方というものなのだろう。
私は、このようなものや他人のあり方に対して、最初に抱いたイメージに固執することなく、見方をバリアブルにすることで、豊かなイメージを捉えることができる人になりたいと思う。
(下線部分が追加・改変箇所。削除は不表示)
この添削例では、なるべく改変するところを少なくし、樋口氏ほど、文章の隅々まで改めるということはしていません。表現の幼さという面では、まだまだ改善の余地はあるでしょうが、それにしても、樋口氏が推敲した文章よりも断然深い内容を言おうとしていることがよく分かるのではないでしょうか。
内容を敷衍していくと
ここで述べられた内容を敷衍していくと、自分の臓器を子どもに与える生体肝移植を美談だと捉えるだけの一面的な思考から、「それはなるほど美談かもしれないが、他の同じような境遇に陥ったけれども、生体肝移植をしようとはしない親や親族に対して、白眼視させるきっかけになるかもしれない危険性もある」というような思考にも発展していく芽にもなるはずです。
テクニックが不足していることが致命傷なのではない
樋口氏は、この元の文章は、「テクニックを知らないために」、面白い素材があるにも関わらず、「それらをきちんと生かせていない。」と言います。しかし、この元の文章や、樋口氏の添削例で決定的に不足しているのは、テクニックなどではなくて、自分の持つ素材が何を云うために使える素材であって、それを読者に伝えるために、どのように配置しながら文章を構成していけばよいかということを煮詰めていく思考力・構成力です。
樋口氏の添削では、「説明不足のためにリアリティがない。」「文体上の工夫がない」などの欠点を補うために、「テクニック」を駆使して、なるほど少しは言おうとすることの具体的なイメージが膨らんできているのかもしれませんが、彼がテーマとして設定した、「きれい汚いは見方によって違う」という内容を伝えるものには全くなってはいません。
「道徳的な内容」が結論となることも、なるほど、思考に深まりがない道徳的な既成概念を振り回すだけになりがちな点で、気をつけるべきではあるのですが、きちんと深い思考を経ながら至る結論なら、それはそれで認められるはずです。元の文章では、論旨と噛み合わない「取ってつけた道徳的な教訓」が結論となっている点で、もちろん改善しなければなりませんが、樋口氏の添削例でも、「取ってつけた浅薄な感慨」が結論となっている点、目くそ鼻くそに近いものがあります。
力がある人達なのになぜ樋口氏を盲信する?
ここで取り上げたのは、早稲田大学の社会人入試の答案のようですから、樋口氏に教えを受けている人ではなかったようです。しかし、『人の心を動かす文章術』を読んでいると、その添削の元になる文章を書いた人達は、さすが作文塾に通おうとするだけのことはあって、かなりな作文力や意欲を有していると私は思います。
そのような人達が、前頁の樋口氏の様な添削を見せられてありがたがって指導を受け入れているということが、今の日本の作文界の嘆くべき大問題なのです。まともな頭脳を持って、「何を言うために、部品をどう並べていくべきか」ということを少しでも自分の頭で考えさえすれば、樋口氏のしていることが、どれだけ歪んだものなのかはすぐに気がつくはずなのに、それに気づかない人間が多すぎる。
私に言わせれば、元の文章と、樋口氏の添削後の文章とでは、文章の完成度はほとんど上がってはいません。私が採点したら、いずれも65点の不合格レベルですかね。
あえて言えば、元の文章から、筆者がこだわっていた部分をほとんど削除して、添削者の勝手な感想を付け加えてしまったことで、文章の支離滅裂さ・浅薄さは、添削後の方がむしろひどくなっています。
本当は筆者にここまで考えさせたい
上の添削は、筆者の元原稿を私が勝手に修正したものです。しかし、本当なら、ここまでの推敲を筆者自身の手で行ってほしいところです。
筆者の元原稿は、頭の中で思いついた素材を、そのそれぞれが本当に意味するところ、そのそれぞれの関係などを正確に捉えられないまま、ずらずらと並べたものです。
我々の頭の中は、普通こんな感じで、関係がありそうなことをあまり正確にその関係や位置づけを把握しないまま、漠然と意識して分かったつもりになりながら一括りにして捉えています。それらの素材の中から、自分が思い浮かべた例の共通点は、「人によっても、視点・見方によっても、ものの見え方は変わってくるということなのだ」と気付き、「なぜそんなことになるのか」ということをもう一歩踏み込んで考えてみると、それは「きれいなだけ、汚いだけ、というような一面だけで構成されているようなものは世の中にはほとんどなくて、物事にはきれい・汚いの両面が備わっているからだ」という要因にまで行き着く。
そしてこのことを発想のベース・素材として、ここから何を自分は言っていくのか、結論をどこに持っていくのかを考えたというのが、この添削例が出来上がっていった筋道です。
このような思考過程は、どのような文章を書く場合でもやらなければならない、通過していくべき必須作業です。これを自分でできるようになることが、「文章を書くホンモノの文章力」に一番大切な首根っこを押さえるということですから、最初は、先生などの他の人にアドバイスをお願いするにしても、最終的には自分でここまでの推敲を完成できるようになることを目指していかなければなりません。
教師の添削は生徒の推敲過程を助ける作業だ
教師の添削とは、生徒のこのような推敲作業を助けるようなものでなければなりません。教師の頭で考えた、「これが足りない。これを足すべきだ」という箇所を生徒の思考を無視して入れ込んだり、生徒が考えたい素材を無視して文章の筋道だけをつけようとしたりしていくのではなくて、「生徒の元の発想から考えられること、考えたいこと、考えるべきこと、そしてそれらを考えるなら、当然こうなっていくべきだろうということ」を見据えながら、生徒の捉えきれていない「本当は書きたかったことに気づかせ、それが文章に反映されるように導いていかなければなりません。
上で、「筆者の元原稿を私が勝手に修正した」と私は書きました。しかし私の添削例を筆者が見たら、「自分が書きたかったのは、本当はこういうことだったのだ」「こう書かなければならなかったのか」と気づいてくれるはずです。
以上説明が大分長くなりましたから、添削者が筆者の発想を軽視して添削してしまうことの問題点については別の頁でもう少し掘り下げて考えることにしましょう。