国語教育

中味を問わない技術などない

 ありがたいことに今岐阜で持たれている全国高等学校全日制定通制国語教育総合研究大会(全国研)に出張で参加させてもらっています。
 とりあえず今日の文部科学省初等中等教育局視学官田中孝一氏の話を聞いて、勝手につらつら考えていたことを書いてみたいと思います。
 とてもじゃあないが、高校の生徒ほどにもよい聞き手ではないので、私の方でも誤解はたぶんにあるでしょうが。
 それで、ここで書こうとすることの要点は、「内容を度外視して、文章を書いたり、何かを発表したりする技術はない」という、これまた私がいつも繰り返していることです。
 田中孝一氏(先生と言うべきなのかな)が、おっしゃたことの一つに、「他教科でも作文力や発表の力は当然つける努力をするべきだが、他教科には「その教科の内容を教える」という主な作業があって、作文力の教育はやはり従になる。やはりその点、作文の技術の指導は、国語科が中心になってすべきである」というような話がありました。
 作文力や、発表力を、全教科をあげて育てなければならないということには、諸手を挙げて私も賛成しますし、作文技術の面でも、やはり国語科が責任を持ってやっていかなければならないだろうことにも、異論はありません。
 しかし、他の教科に主として教えなければならない内容があって、作文力が従であるのに対して、国語科では、教える内容とは別の技術だけを独立して教えなければならないというのはいかがなものでしょうか。

内容を伴わない技術は生きる力にはならない

 話が突然飛躍しますが、そしてこれを言うと多くの批判を受けるのかもしれませんが、最近の英語教育でオーラルコミュニケーションなどというのをたいそうな時間をかけてやって、それで英語のコミュニケーション能力が身に付くなどとしたり顔で言っている輩(やから)を私は全く信用していません。「馬鹿なことを言うな」という気分です。あいさつをして、それから、道案内をしたり聞いたりするぐらいの会話ができたとして、それが何のコミュニケーション能力でしょうか。
 小学生でも、幼稚園児でも、母国語を使う者ならば、言葉は足りなくとも、自分の思いや要求を、相手に伝えることができるはずです。それがコミュニケーション能力です。大人であれば、ある程度思想的な内容でも、四苦八苦しながらでも伝えることができる、それがコミュニケーション能力というものです。
 大の大人が、挨拶をして、ちょっと道が聞けたと喜んでそれでよしとするのが今のオーラルコミュニケーションをやろうという発想です。確かに、英語コンプレックスを持っている人間が、ちょっと英語を話せた気分になって喜んでいる分には、それでもよいのかもしれません。しかし、そんなことをやったって、英語を使って生きる力を育てることには全くつながりません。
 それよりは、「従来通りの文法漬けの英語教育の方が絶対に中味がある」というのが私の考えです。それは、すぐに英語を使って挨拶ができなかったり、最初に英語を聞いたときに聞き取れなかったというようなことがあったとしても、基礎教養として本質的なところでの理解がきちんとしていれば、聞き、接することに慣れることで、将来英語を使って生きていくための素地を十分に身につけていると思うからです。たとえ表面的に挨拶などの言葉を交わすことはできても、それだけで、そこから発展する素地を全く提供しない現在のオーラルコミュニケーションなどよりは、将来きちんとそれを使って生きていくだけの素地を身につけさせることの方が、遙かに応用がきくはずです。
 ただ、従来のやり方にも、確かに悪かったところはあります。それは、発音を全く重視しなかった点です。しかし、それを克服するためには、ただネイティブというだけで、英語の本格的な勉強など、ろくすっぽしていないアルバイト気分の人間に、日本人の何倍もの給料を払うなんてばかげたことをまじめくさってやるのではなくて、骨のある思想性のある文章で、日本人がしっかり文法を教え込むと同時に、その同じ文章を、CDなどの音声教材を使い、徹底的に暗記させるしかありません。
 これと同じ愚をしているのが、国語で言えば国語表現です。中味がないのに、同窓会の案内文を書いてみたり、ディベートをさせてみたり。要するに、中味の難しいものを要求してみても多くの者が不消化に終わるから、内容を思いっきり下げて、いわゆる「技術」を身につけさせようという発想になるのでしょう。
 しかしこれも英語の場合と同じで、中味がないものをいくら形を整えて、作文を書いたりプレゼンテーションをしたりしてみても、そんなのは絶対に生きる力になるはずがありません。本質的な筋道を通す訓練を難しい内容でせずにおいて、その技術が実際の大人の生活の中で生きる力になるなどというようなことは、絶対にありません。
 発表、作文の技術とは、生活レベルの、発想ではなかなかまとめきれない事柄について、自分が漠然ととらえている内容を、漠然とではなしに自分自身がはっきりととらえ直して、そこで整理された内容を他人にきちんと伝えるということです。
 そのような根本的な発想の仕方を教えずに、最初に結論を言うとか、みんなに伝わるように、具体例を入れてみるとかいう、いわゆる技術を教えてみても、英語のオーラルコミュニケーションと一緒で、伝える中味がないのですから、それが生きる力につながることは絶対にありません。
 その様な教育改革を唱道する連中は、英語にしても国語にしても、「教育改革」をしたということを自分の功績にするべく、入試制度にしても、今までとは違ったことを自分たちがやっているということを標榜(ひょうぼう)して、それがさも自分の手柄であるかのように言わなければならない人たちなのですから、次から次から、内容の無い形だけの「改革」ばかりを主張するのです。しかし、それで結局中味のない教育を受けて被害を被るのは、本当に生きる力をつけなければならない生徒達なのです。

国語はあらゆる教科を教える何でも屋である

 大学や研究者の間では、あらゆる学問が自分の存在を主張しています。しかし高校で学ぶ教科はせいぜい数個で、たいした数ではありません。大学で数多くある学問分野を高校の数少ない教科に割り振るとするなら、本来的には、国語に残るのは極端なことを言えば、たぶん、文学・言語教育の分野と、古典の分野くらいでしょうか。
 しかし、実際には、高校で他教科が担おうとしている勉強内容は、大学の教育内容から比べれば遙かに少ないため、他教科ではあまり正面から取り上げられなかった内容の中で、高校生がこれから生き考えていく上で知っておいた方がよいようなことを、国語の現代文で取り上げることが多いのです。いわゆる評論の分野はほとんどがこれです。
 そのようなことになぜなってしまうのか。その理由は簡単です。それは先ほどから述べているように、思考と切り離した技術など無いからです。どのような分野の内容であれ、生きる上で知恵となるような本質的な問題を含む文章を読み解く中で、文章や思考についての本質的な能力を高校生に高めさせようというのが、今日の高校国語の生きるべき姿なのです。
 高校までの国語が、そのような、大学教育の中では日本語学や、文学部の研究から遙かにはずれた多くの文章を取り扱うこと自体、「本質的な問題を含んだ文章に接することで、量的にではなく思考の質を根本的に変えていく」ことが、国語を教育する意義の内で、かなり重要な部分を占めることの証明になっているはずです。
 ですから、国語はその扱うことについて、責任を負わなければなりません。他教科の先生が、教える内容が先決で、それを表現することは副次的なことにすぎないというような姿勢でいるならば、生徒たちは、先生方の姿勢の如何(いかん)に関わらず、入試で小論文を要求されているわけですから、誰かがその尻ぬぐいをしなければなりません。そしてそれをするのは、国語の教員しかありません。
 国語の教員の中にも、「それは社会科や理科の問題であって、専門的なことは、私たちでは指導できない」というように、責任を他に持っていこうとする人たちはたくさん居ます。しかし、そのような分野で、内容の検討を抜きにして、字句の訂正をしてみたとしても、そこでできあがる文章は、元の文章と五十歩百歩です。それは一番要求されるのが、事の本質的な理解であるのに、そこの部分が全く改善されることがないからです。
 そのようなことがないように、国語の教員が作文や小論文に携わろうとすれば、確かに私たちはその分野の専門家ではないかもしれませんが、教師自身が自分の持てる思考力や、調べる力をフルに発揮して、生徒の思考の質を本質的に変えていくしかありません。その点で、私は、国語の教員は他の教科の専門家たちでさえ育てようとはなかなかしないその教科での本質的な思考能力を高める手助けをしているのだという自負を持っています。
 確かに私たちは専門家ではありませんから、指導をして、それ以上に思考を促す部分での指導は、他教科の先生にお願いすることもよくあります。しかしそれは、基本的な思考の枠組みを、自分の力の及ぶ限りで生徒に整理させてから後のことです。
 このような意味で、国語の教員は、他教科の先生以上に、本質的な思考形成能力を高めていなければなりませんし、実際そういう教員は多いはずだと私は思っています。
 それが、「国語はあらゆる教科を教える何でも屋である」ということです。

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