自分で考える力?

自分で考える力をつけるなどと言うけれど

 「内容から独立した技術」という発想の話を前頁でしました。それと同じような考え方の例として、「考える力を身につけさせる」ことをスローガンにしてよく行われるやり方について考えておきたいと思います。
 ここで改めて言うまでもなく、このような教育は、教科書に書かれている知識の詰め込みをしただけで満足している従来の詰め込み教育への反省から必要性が叫ばれるようになったものです。
 確かに、知識を詰め込んで、その詰め込んだ知識をどのようにこれから活かしていくのかを身につけさせようという発想がない教育は、頭でっかちで生きる力の無い人間を量産してしまうという点で問題でしょう。しかし、それではと言って、知識を丸暗記させることは本当にそれほど悪いことなのでしょうか。むしろ、考える基礎となる知識の習得を全く無視した、「生きる力」「考える力」などというものをもっともらしく主張し、それに子どもを巻き込むことの方が、もっと大きな問題を生むのではないでしょうか。

 私の小学校時代の記憶として、今でも鮮明に覚えていることの一つに、理科でのある実験のことがあります。
 それは、例えば水を、冷蔵庫などを使わずに凍らせるためにはどうすればよいかという実験でした。実験に先立って、先生は生徒にどうすればよいかを発表させます。私などのようなのんびりした生徒は、洗面器に氷を入れた水をためてみようなどと訳の分からないことをいいます。そのような意見の中で、あらかじめ予習をしてきている生徒が、洗面器の氷水の中に塩を入れてそれに水を入れたビーカーをつけておこうと言うのです。
 それなら各自が言うようにさあ実験してみようということになるわけですが、当然、教科書に書かれていないようなやり方では、うまくいくはずもなく、私などはわびしく氷を入れた洗面器のお守りとなります。
 「考える力」「生きる力」とは、これまでの生徒の生活レベルから一歩抜け出すからこそ、身に付くものです。言葉を換えれば、これまでの生活レベルの浅い思考を乗り越える知恵そのものが、「考える力」「生きる力」だともいえるわけです。
 よくできる生徒は、ひょっとしたら水は0℃以下になると凍り始め、氷を入れただけでは、水が0℃以下になることなど無いと知っているかも知れません。しかしそれでは、それをさらに0℃以下にするにはという問いかけをして、彼らがこれまで身につけてきた知識を総動員して考えても、答えは出てこないはずです。そのような生徒の思考レベルを上げる力にならないことを、いくら形の上だけで考えさせるふりをしてみても、力にも何にもなるはずがありません。ただ時間つぶしを大量にするという意味で、「塩を入れる」と覚え込ませるよりも、さらに無駄な教育です。
 ですから、このことでもし生徒に考えさせる力を身につけさせ、発見の喜びを感じさせようとするなら、「凝固点降下」ということについて、このようなことがあるというような基本的な考える材料を与えておいて、すなわち、生徒が自分の持っている知識を総動員すれば、問題を見つけ出したり、発展させたりすることができるような状況をつくっておいて、その基礎に立ってさらに問題意識を喚起させる発問を工夫していかなければならないはずです。
 このように、考える内容や、材料を抜きにした、考える技術・力などというものはやはり存在しません。私などの部外者が想像するに、小学校の生活科の取り組みが、どうもうまく機能しているような気がしないのも、ここに原因があるからです。
 「生きる力」「考える力」という面でも、表現・作文の力と同様、やはり、生徒がこれまで身につけている生活上の常識を、一段高いところで捉え直させる努力・工夫をしない限り、形ばかりで内容などないことを、いくらもっともらしくさせてみても、それは全く時間の無駄でしかないということを、我々教育する側は、もう一度確認しておかなければなりません。

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