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   <title>ねこの小論文・作文超入門</title>
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   <updated>2018-12-15T13:50:13Z</updated>
   <subtitle>小論文・作文にスムーズに取りかかることができるように、最初に知っておいてほしい考え方や、基本訓練を紹介しています。</subtitle>
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   <title>「が」にご注意</title>
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   <published>2007-02-04T23:35:33Z</published>
   <updated>2018-12-15T13:50:13Z</updated>
   
   <summary>　〈「が」に注意する〉（『ねこ』P38）で、「が」を無意識に使うことの危険性を指...</summary>
   <author>
      <name>Neko Fumio</name>
      
   </author>
   
      <category term="0600-思考の整理" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      <![CDATA[　〈「が」に注意する〉（『ねこ』<a href="http://www.syouron.com/nekoron/2/2007/02/post_42.php">P38</a>）で、「が」を無意識に使うことの危険性を指摘しました。この説明だけではなかなか具体的なイメージがわかないでしょうから、実際の例文の中で、「『が』を使うことによって、筆者自身が自分の論理のつながりの甘さに無自覚になってしまう」ということについて考えておきましょう。
　例文は先項で取り上げた例文の少し前の部分です。

<div class="title-left"><strong>例題２　「心の単純化」に陥らないために（２）　大石　静</strong></div><div class="reibun">　問題は、こういうコトバ（「超MM」のような若者言葉）を使う子たちが、こういうコトバを知らない人たちをバカにすることだ。<br />
　橋本治氏が「若者言葉は方言の一種である」と書いておられるのを読んで、なるほどと思った。?方言?はよそ者を見分けるために生まれたという説もある(1)<u>が</u>、若者言葉も、その見分けのひとつとして存在している面がある。<br />
　更に、これは日本だけの風潮らしい(2)<u>が</u>、世の中が若さというものを、やたらとありがたがるので、若者は当然のごとく勘違いしてつけ上がる。若者言葉を解さないというだけで、積み重ねて来た経験の尊さを、笑い飛ばして平気な感覚を育ててしまう。<br>
　一過性の若さは、誰でも手に入れることができ、いつか手放さなければならないという、あまりにも簡単な構図さえ、すべての人が見失いがちな昨今だ。（括弧内Nekoの加えた注）<br />
<ol TYPE="1" style="text-align:left">
<li>　下線部(1)で、「が」の前後の部分の関係を説明し、筆者の発想の流れが分かるように文章を書き換えなさい。</li>
<li>　下線部(2)で、「日本だけの風潮」であることを、筆者がここで付け加えようとした理由を説明しなさい。</li>
</ol></div>


<div class="title-left">「が」の前後がどういう意味でつながっているのかを見る</div>
　教科書末尾の「学習のポイント」には、<div class="reibun">接続助詞の『が』には、「顔は怖い<u>が</u>心は優しい」のような逆接の場合と、「森にはいろんな動物がいました<u>が</u>、猿もいました」のような順接の場合がある。次の「が」はどちらか確かめてみよう。</div>というような問題がついています。しかし後者のように曖昧な関係で接続していく使い方が「が」には多いので、それらをすべて「逆接」ではないからという理由で、この例文の(1)(2)のようなものを「順接」と答えてみても、そこから何か理解が深まるとはとても思えません。
　それでは(1)から、「が」の前後がどういう意味でつながっているのかを実際に見ていきましょう。
　この例では、「が」の前後で、何らかのつながりはあるように感じられるものの、「?方言?はよそ者を見分けるために生まれたという説もある」ということと、「若者言葉も、その見分けのひとつとして存在している面がある」ということと、「が」でつないで書いておけば説明しないでも、明らかに分かってもらえるというわけにはいきません。
　ここでの筆者の発想は、「?方言?はよそ者を見分けるために生まれたという説もある」。方言をそういうものとして理解するなら、「若者言葉も、その見分けのひとつとして存在している面がある」のだから、「若者言葉は方言の一種である」と考えるのも納得がいく、というような流れになっているはずです。
　それだけの思考を経なければ明確に因果関係を説明することはできないのに、筆者がそこまで整理することなく、頭の中の混沌を混沌のままの形で表現してしまったのが(1)の「が」なのです。
　これだけの思考をもし表現をなるべくいじらないようにして整理して表現するなら、<div class="reibun">"方言?はよそ者を見分けるために生まれたという説もある<u>通り</u>、若者言葉も、その見分けのひとつとして存在している面が<u>確かに</u>ある。</div>というようなところでしょうか。
　表現自体は、下線部が２カ所ちょっと変わっているだけですが、「思考の整理」という観点から見ると、例文とこの書き直した文章とでは格段の差があることに注目してください。


<div class="title-left">(2)の「が」はつながり自体は簡単そうだが</div>
　(2)の「が」はつながり自体は簡単そうですが、これもやはり、思考の流れを把握した結果、この「が」を使うのがいいだろうというような判断をした上で使われているわけではないようです。
　(2)の「が」で、「日本だけの風潮」であることを、筆者がここで付け加えようとしたのはなぜでしょうか。
　「世の中が若さというものを、やたらとありがたがる」という「日本だけの風潮」があるため、日本では「若者は当然のごとく勘違いしてつけ上がる」という他の国では見られないマイナス面が出てくる。
　つまり、「他の国と比較して、日本だけが特別で、それが悪いところである。」ということを強調するために、「日本だけの風潮」であることを、筆者はここで付け加えているのです。
　そのような意識があるために、「これは日本だけの風潮らしいが」といってはみたものの、その意識がきちんと整理され自覚された結果書かれたものではなかったために、その後のところで、「日本だけのだめな特徴」として強調するまでには至っていないのです。
　これを<div class="reibun">更に、世の中が若さというものをやたらとありがたがる<u>という日本だけの風潮があるので、</u>若者は当然のごとく勘違いしてつけ上がる。<u>その結果日本では</u>、若者言葉を解さないというだけで、積み重ねて来た経験の尊さを、笑い飛ばして平気な感覚を育ててしまう<u>（のである）</u>。</div>とすれば、そこら辺の意識は原文よりかなりすっきりするはずです。


<div class="title-left">「こうすればいい文章になる」などと言おうとすると</div>

　「こうすればいい文章になる」などと言おうとすると、そこで俎上（そじょう−まな板の上）に乗せられている文章と、それを批評している人の文章とを比較して、「自分は人とは違う、いい文章を書いているつもりなのだろうな」というような批判を受ける恐れを抱かないわけにはいきません。
　実際自分自身、「が」を警戒するような文章を書いておきながら、どうも最近無自覚の「が」をずいぶんとホームページなどでも使っているような気がして、自戒しなければいけないなと感じているところです。
　なお、上で見た例は、あくまで「そういう思考法をするとこういう表現になる」ということを、説明しやすそうだということで取り上げた、一つの典型的な例にすぎません。ですから、「この文章が他と較べて特に悪文である」などと言おうとしているものではありません。
　「このような発想の元で、このような思考になると、このような表現になってしまう」という説明の意図をしっかりと把握していただいて、自分の文章や、他人の文章を見る時の参考に活用してくだされば幸いです。]]>
      
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   <title>実は筆者の思考はもっと混沌としている</title>
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   <published>2007-02-02T19:19:48Z</published>
   <updated>2018-12-15T13:49:47Z</updated>
   
   <summary>　これまで三項にわたって、「『心の単純化』に陥らないために」を推敲する例を取り上...</summary>
   <author>
      <name>Neko Fumio</name>
      
   </author>
   
      <category term="0600-思考の整理" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.syouron.com/nyuumon/">
      <![CDATA[　これまで三項にわたって、「『心の単純化』に陥らないために」を推敲する例を取り上げてきました。ここで例題にした部分は、教科書本文ではもうちょっと続きがあるので、実は先に整理した以上に筆者の思考の混沌は深いのです。
　ここまでかなり詳しく説明してきましたから、乗りかかった船で、最後まできちんとこの文章について見ておきましょう。（ただし、作文技術について性急に結果を得たい人はこのページは読まなくてかまいません。次のページに移ってください。）

　元の教科書本文では、下を見ていただくと分かるように、［２］の部分がさらに付け加わって、大きな意味段落を構成していて、これが、最初の大囲みの意味段落に続く二つめの意味段落になっています。

<div class="title-left2-dai"><strong>例題１　「心の単純化」に陥らないために　大石　静</strong></div><div class="reibun"><div class="reibun">　<前の意味段落>
　　〜（「超ＭＭ」【超・マジ・ムカツク】のような若者言葉を、「イキイキとしたセンスのいい表現」であると説明した後）〜

　問題は、こういうコトバを使う子たちが、こういうコトバを知らない人たちをバカにすることだ。
　橋本治氏が「若者言葉は方言の一種である」と書いておられるのを読んで、なるほどと思った。?方言?はよそ者を見分けるために生まれたという説もあるが、若者言葉も、その見分けのひとつとして存在している面がある。
　更に、これは日本だけの風潮らしいが、世の中が若さというものを、やたらとありがたがるので、若者は当然のごとく勘違いしてつけ上がる。若者言葉を解さないというだけで、積み重ねて来た経験の尊さを、笑い飛ばして平気な感覚を育ててしまう。
　一過性の若さは、誰でも手に入れることができ、いつか手放さなければならないという、あまりにも簡単な構図さえ、すべての人が見失いがちな昨今だ。
　　　〜（以後少し省略）〜
</div><br />
<div class="reibun"><div class="reibun">[ １] 　パソコンも、コトバと同じように急速に進化しているが、パソコンを操れるというだけで、操れない人より上に自分を位置づけている人が多い。</div>いろいろなサイトに顔を出し、自分は身を隠したまま発言を続ける人の使っている言葉には、多くの場合、どこか奇妙なニュアンスがある。見知らぬ人の、見知らぬ部分への配慮や敬意に欠けた精神が、パソコンのキーボードから打ち出す言葉に、私はいつも抵抗を持つ。<br>　敬語や丁寧語の乱れと消失─これも言葉の進化の重要な一面であろう。他者との距離感や敬意が薄れたことが、敬語や丁寧語の消失を招いた原因であることは明らかだ。<br />　誰でも対等、誰に何を言っても平気、表現することの恐ろしさも知らず何か語っていれば、黙っていることより価値がある、という風潮も危険だ。過激な言い方だが、我が身をさらした発言以外は、便所の落書きに等しい。そのことを認識すべきだろう。そうすれば、あえて発言する時の言葉の重さ、言葉の選択の仕方は、おのずと変わってくると、私は思う。<div class="reibun">[ ２]　最初に例を挙げたような若者言葉を、若者同士で使うのは、それはそれでステキなことである。しかし、何か気に入らないことが全て「超ＭＭ」で片づけられてしまうとすると、それは精神を貧しくする</div></div>
</div>
　例題を採った段落にさらに［２］ような内容の本文があるとすると、例題に採った部分だけでも、［１］とそれ以降の二つの部分に意味が分裂しているのに、［２］の部分も、これまた先の部分と続き具合が分からず、この段落は結局三つに分裂していることになります。
　さてこの段落にメインの部分とは一見つながらないように見える［１］［２］がくっついてしまった理由ですが、それは前段とのつながりを見れば何となく分かってきます。
　前段の四角囲みのの意味は次項で取り上げたのでそれを見ていただくとして、［１］はそれとのつながりで、「パソコンを操る人も、自分たちだけを特別に考えていて、パソコンを操れない人を馬鹿にする傾向があるといっているのです。すなわちそれは、結局自分たち以外の人に「配慮や敬意が足りない」ということです。
　そのような意識が［２］に続いてきているので、若者言葉を使う人たちも、パソコンを操る人同様、自分たち以外の人に「配慮や敬意が足りないので、多様な言葉遣いができず、「精神が貧しくなる」といっているのです。
　どうもこのような説明では分かりにくいですね。これをもっと図式化していうと、筆者の意識の中では、若者言葉を使う人とパソコンを使う人とがともに特権意識を持つような感じで、自分たち以外の人に対して配慮や敬意を欠くということと、匿名でサイトの書き込みをする人が、他人に対して配慮や敬意を欠くということとが、共に「配慮や敬意を欠く」という点で共通しているので、オーバーラップして、重層構造になっているのです。
　しかしここまで意識が整理されないまま重層的になっていると、それをはっきり切り分けて、理解できる読者というのはまずいないでしょう。


<div class="title-left">ここまで混沌とすると正確に分かる人など誰もいない</div>　この文章は教科書に載っている文章ですから、多くの先生方がこれを取り上げ、多くの生徒がこれを読んだと思います。ですが、この文章がここまで説明したような構造になっていたとは、何人の人が本当に分かっていたでしょうか。
　前段との関わりで［１］を問題にし、ここでは取り上げなかった後段との関わりで［２］を説明することはあるでしょう。しかし、この例題が含まれている段落を［１］［２］のつながり具合を含めてきちんと理解して分かりやすく授業をすることなどほとんど不可能ではないでしょうか。かく言う私も昨年ここを授業したときには、この構造をここまでは把握できていませんでした。
　もっとも、これだけ混沌としている文章の構造を理解することなど、添削指導を目指す教員でもない限り必要ないでしょうが。]]>
      
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   <title>例題１の推敲例</title>
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   <published>2007-02-02T18:34:13Z</published>
   <updated>2018-12-15T13:49:21Z</updated>
   
   <summary>　前項の説明をふまえて、とりあえず元の文章をなるべく変えないように、私が推敲して...</summary>
   <author>
      <name>Neko Fumio</name>
      
   </author>
   
      <category term="0600-思考の整理" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.syouron.com/nyuumon/">
      <![CDATA[　前項の説明をふまえて、とりあえず元の文章をなるべく変えないように、私が推敲してみました。
<div class="title-left2-dai"><strong>例題１　「心の単純化」に陥らないために　推敲例</strong></div><div class="reibun">　いろいろなサイトに顔を出し、自分は身を隠したまま発言を続ける人の使っている言葉には、多くの場合、どこか奇妙なニュアンスがある。それは彼らがパソコンのキーボードから打ち出す言葉には、見知らぬ人の、見知らぬ部分への配慮や敬意が欠けているからである<br>　パソコンのように匿名でなら、自分の言葉に責任を取る必要はない。だから、このような世界では、他者との距離感や敬意はますます薄れてしまう。<br />　だが、表現することの恐ろしさも知らず、誰でも対等、誰に何を言っても平気、何か語っていれば、黙っていることより価値がある、という風潮はとても危険だ。<br />　過激な言い方をすれば、我が身をさらした発言以外は、便所の落書きに等しい。他人のことを思いやることもせず、自分の言葉に責任も持たない者の発言など、全く無意味だ。そのことを我々は改めてしっかり認識すべきだろう。<br />　そうすれば、あえて匿名で発言をするような場合でも、自分の言葉の重さ、言葉の選択の仕方はおのずと変わってくると、私は思う。</div>

　これで名文になったという気はさらさらありませんが、少なくとも何を言いたいのか、元の筆者が言いたかったことがそのまま素直に表現された文章になっていることを感じていただけるなら、この推敲は成功したといえるでしょう。
　最後の終わり方が気になる人がいるかもしれません。しかし、これは元の文章と表現は同じでも、中身は全く違います。そのすぐ前に、「他人のことを思いやることもせず、自分の言葉に責任も持たない者の発言など、全く無意味だ」と書いてあるので、どのような方向に言葉の使い方が変わるのか、きちんと把握できるからです。


<div class="title-left">生徒の添削例</div>
　生徒に例題を書き直してもらっても、なかなかきちんと筋の通った文章にしてはくれません。「筋を通して、言いたいことにたどり着く文章を書く」というのは、当たり前といえば当たり前だとはいえ、やはりそれをいざ実践するとなると、それほど易しくはないようです。
　このような例文を書き直す課題であれば、何を主張するかについては悩む必要がなくなるものの、今度はその訴える部分をしっかりと理解しなければならなくなるので、自分の身近な話題について筋の通った文章を書く練習をするのとどちらが簡単かは悩ましいとこです。
　とはいえ、中には生徒もしっかりした添削例を作ってくれます。それを3つ紹介してみましょう。

<div class="title-left2-dai"><strong>例題１　「心の単純化」に陥らないために　生徒推敲例１</strong></div><div class="reibun">　いろいろなサイトに顔を出し、自分は身を隠したまま発言を続ける人の使っている言葉には、多くの場合、見知らぬ人の、見知らぬ部分への配慮や敬意に欠けた言葉がめだつ。自分の名前を出さない人の発言は、その発言に対して責任を取る必要がないので、名前を出している人の発言よりも無責任になりがちだからだ。<br>　誰でも対等、誰に何を言っても平気、表現することの恐ろしさも知らず、何か語っていれば、黙っていることより価値がある、という考えがあるため、余計無責任で配慮や敬意に欠けた発言になりやすい。<br />　過激な言い方だが、我が身をさらした発言以外は、便所の落書きに等しいと言えるだろう。つまり、無責任で自己満足なだけの発言になってしまうということをよく認識しておくべきだ。そうすれば、あえて発言する時の言葉の重さ、言葉の選択の仕方はおのずと変わってくると、私は思う。</div>

　元の文章にある素材をなるべく活かし、他に勝手な材料をつけ加えずに一つの文章にしようとすれば、生徒のレベルでは、これがほぼ模範解答ではないでしょうか。たどり着く結論に向かって、材料同士の関係をよく考えて、分かりやすく文章を組み立てています。<br /><br />

<div class="title-left2-dai"><strong>例題１　「心の単純化」に陥らないために　生徒推敲例2</strong></div><div class="reibun">　いろいろなサイトに顔を出し、自分は身を隠したまま発言を続ける人の使っている言葉には、多くの場合、どこか奇妙なニュアンスがある。それは、誰でも対等、誰に何を言っても平気、何か語っていれば、黙っていることより価値がある、という価値観を持っているからである。<br>　では、なぜ身を隠したまま発言を続ける人は、このような価値観を持つようになったのだろうか。それは、身を隠したままの発言は、その発言に対して責任を取る必要がないので、無責任になりがちだからである。例えば、自分の苦手な人に何かを言う時、面と向かっては言えないことも、誰が何を言っているのか分からない時には言えたりするのと同じ事である。
　つまり、身を隠したままの発言は、信憑性がなく、相手を思いやる気持ちのない無責任な言葉でしかない。このような言葉を使うのではなく、自分を隠さずに発言し、きちんと責任を取る覚悟で、言葉を使っていかなければならないと思う。</div>

　最初の段落の因果関係は、鶏が先か、卵が先かというようなもので、実を言えばちょっと怪しいかも知れません。しかし、それほど注意深く読まなければ、これでも筋はさほど気にならないでしょう。

　この解答で、みんながなかなか真似できないところは、「面と向かって言えないことも〜」という部分で、文章を書いていく上で、この部分が流れをスムースにし、説得力を高めています。<br>　与えられた材料をただ並べ替えるだけではなく、そのつながりを把握して、自分で考えた例を補足しながら、再構成して文章にした所にこの解答の良さがあります。

<div class="title-left2-dai"><strong>例題１　「心の単純化」に陥らないために　生徒推敲例3</strong></div><div class="reibun">　言葉の進化とともに、人は言葉を発する責任を忘れかけているように思う。言葉を発するには責任を伴う。無責任に発した一言が、人を傷つけてしまうことがある。
　私がそう思うのは、パソコンを使い、自分は身を隠したまま発言を続ける人の言葉が乱れ、見知らぬ人の、見知らぬ部分への配慮や敬意に欠けているからである。パソコンのキーボードから打ち出す無責任な言葉は、便所の落書きに等しい。
　誰でも対等、誰に何を言っても平気、何か語っていれば、黙っていることより価値がある、という考え方は間違いである。このような考え方をしていると、無責任な言葉遣いによって、言葉は間違った方向に進化してしまう可能性がある。
　だから我々は、言葉を発する責任を改めて認識し直さなければならないと私は思う。言葉を発する責任について、人が正しく認識できたならば、言葉は良い方向に進化していくはずでる。他者との距離感や敬意が薄れていることを人々は正面から受け止め、我が身をさらした発言を続けていくことで言葉の進化を正しい方向に導いていかなければならない。</div>

　この解答は、「言葉の進化」に的を絞って書いた推敲例です。生徒がこのような視点からまとめようとすること自体思いつく人は少ないと思います。それをここまでまとめきったのはさすがです。]]>
      
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   <title>思考を整理してみよう</title>
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   <published>2007-02-02T17:26:49Z</published>
   <updated>2018-12-15T13:59:57Z</updated>
   
   <summary>　前項で例題にした「『心の単純化』に陥らないために」を、練習問題として、もうちょ...</summary>
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      <name>Neko Fumio</name>
      
   </author>
   
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.syouron.com/nyuumon/">
      <![CDATA[　前項で例題にした「『心の単純化』に陥らないために」を、練習問題として、もうちょっと整理した文章に書き改めてみましょう。

　前項までの説明では、まだまだこの例題の未整理な部分を、十分に把握できてはいないでしょうから、以下もう少し細かく、この例題について見ていくことにします。
　説明しやすいように、文章のパーツパーツに部品番号をふって、もう一度例題をここに載せます。筆者の思考がどういう流れになっていて、どのような文章にすれば、その思考が読者に分かりやすく伝わるのか考えてみてください。

<div class="title-left2-dai"><strong>例題１　「心の単純化」に陥らないために　大石　静</strong></div><div class="reibun">　(1)パソコンも、コトバと同じように急速に進化しているが、(2)パソコンを操れるというだけで、操れない人より上に自分を位置づけている人が多い。(3)いろいろなサイトに顔を出し、自分は身を隠したまま発言を続ける人の使っている言葉には、多くの場合、どこか奇妙なニュアンスがある。(4)見知らぬ人の、見知らぬ部分への配慮や敬意に欠けた精神が、パソコンのキーボードから打ち出す言葉に、私はいつも抵抗を持つ。<br />　(5)敬語や丁寧語の乱れと消失─これも言葉の進化の重要な一面であろう。(6)他者との距離感や敬意が薄れたことが、敬語や丁寧語の消失を招いた原因であることは明らかだ。<br />　(7)誰でも対等、誰に何を言っても平気、表現することの恐ろしさも知らず何か語っていれば、黙っていることより価値がある、という風潮も危険だ。(8)過激な言い方だが、我が身をさらした発言以外は、便所の落書きに等しい。(9)そのことを認識すべきだろう。(10)そうすれば、あえて発言する時の言葉の重さ、言葉の選択の仕方は、おのずと変わってくると、私は思う。</div>


<div class="title-left">パーツ同士の関係を細かく見ていこう</div>　(1)(2)について、「何となく関係がある」と感じてはいても、文章を書く段階で、その関係づけに苦労して、結局「文書には取り込めない」と判断していかなけれらばならない部分だということを前項で説明しました。
　この(1)(2)についてもっと細かいことを言えば、「が」でつながっている(1)と(2)のつながりもあやふやです。（『ねこ』<a href="http://www.syouron.com/nekoron/2/2007/02/post_42.php">P38</a>）
　(1)では、「パソコン」と「コトバ」の進化を取り上げますが、この文章でそれらをなぜ問題にしなければならないのでしょうか。「パソコン」の進化については、筆者には本文と関わりがあるところで、たぶん何か言いたいことはあるのでしょう。けれども、少なくともこの文章に書かれている範囲ではそれが何なのかさっぱり分かりません。
　「コトバ」の進化については、(5)にもう一度出てきます。これを見る限り、筆者はたぶん「他者との距離感や敬意が薄れたこと」から、他人に対する「配慮や敬意に欠け」るような方向に言葉遣いが変化していると考えているようです。しかしこれも、バラバラなところでほのめかされている程度で、本文の論旨と関連させて述べられているわけではありません。<br>
　言葉の使い方（表現）についてもう少し細かくこだわるなら、そのような「コトバ」の変化を、はたして「進化」と呼ぶのが適切かどうかも気にすれば気になるところではあります。

　(3)(4)のつながりは、このままでもついていないとも言い切れません。しかし、本文のような前後のつながりで(3)(4)を持ってきたのでは、何を言いたいのかをはっきりと自覚して自分の考えを説明しようとした文章になっていないことは明らかです。
　(3)で、「どこか奇妙なニュアンス」を問題にします。このような抽象的で、指す内容のはっきりしない言葉を使う場合には、そのニュアンスとはいかなるものかの説明が絶対に必要です。それを説明しようとして(4)を続けたならば、(4)はこのような書き方には絶対になりません。
　また形式段落の２段落目、すなわち(3)(4)で、筆者が言いたいのは、「どこか奇妙なニュアンス」なのでしょうか。それとも、それに「抵抗を持つ」ということなのでしょうか。(4)のように、「抵抗を持つ」という終わり方をするなら、「私が抵抗を持つ」ことを受けた形で次の段落を始めなければなりません。「どこか奇妙なニュアンス」の説明が大切で、「私」の感情を述べるのは二の次ならば、この段落は、「どこか奇妙なニュアンス」の説明をきちんとした方が収まりが断然良くなるはずです。

　(4)から(5)のつながりについても、前項で説明しました。筆者の意識の中では、「他者との距離感や敬意が薄れた」というところで、「自分は身を隠したまま発言を続ける人」の言動と、「敬語や丁寧語の乱れと消失」とがつながっているのでしょう。しかし、この文章はあくまで、パソコンで「自分は身を隠したまま発言を続ける人」の言動を問題にしているのですから、これをいうなら、その流れの中で取り上げるようにしなければいけません。そのようにして「敬語や丁寧語の乱れと消失」にまでうまく言及できるのか、「敬語や丁寧語の乱れと消失」に言及するのはあっさりあきらめて、パソコンの話だけにとどめてしまうのかは筆者が判断しなければならないところです。
　(1)のように筆者が「コトバの進化」に言及していることから考えると、あるいは筆者は「コトバの進化」にスポットを当てて書きたかったのかもしれません。しかし現状の文章では、それは行きがけの駄賃のような形で触れられているに過ぎないので、もしそこまでを書きたいのなら、文章の全体的な構成そのものを内容を含めて見直す必要があります。

　(5)(6)は、「自分は身を隠したまま発言を続ける人」の言動が起こってくる背景について何となく筆者が付け加えてしまった部分で、(3)(4)から内容が直接続いてくるのは(7)になります。
　ところでこの(7)の「〜という風潮<u>も</u>危険だ」というのはどういうことでしょうか。「〜も」というからには、その前に必ずもう一つ危険なことの説明がしてあって、それを受けて「〜も」と受けていくはずです。ところが、ここの「〜も」につながっていく前の部分は、どこを探してもありません。
　筆者の意識の中では、(3)(4)が前の受ける部分だったはずです。しかし、(5)(6)を取ってしまって、(3)(4)からすぐに(7)が続く文章を考えてみればすぐ分かるとおり、(5)(6)と(7)は並列で並べて説明するような事柄ではなくて、前項の問で考えたように、お互いに因果関係がある事柄なのです。ですから、この三つは、その関係を整理して、どのように主張していくか、まとめていかなければいけません。
　なお、筆者がここで「〜も」と書いてしまったのは、(3)(4)と(7)との間に(5)(6)を入れてしまったので、前に書いた(3)(4)から(7)をつなげたいがために、さも別の同類のことがならんでいるかのように無意識のうちに扱ってしまったからでしょう。

　(8)ですが、これをいうのなら、ここが筆者の主張の要（かなめ）になる部分ですから、その根拠を必ず示さなければいけません。ここまでに十分この判断を支える根拠を書ききっているのならいざ知らず、そうでもないのにこのように書いても、筆者の独断を読者に押しつけることにしかなりません。これでは当然読者は納得してはくれません。
　この文章の場合、筆者が自分の主張の理由をきちんと把握して書いていないから、このようにそれらしいことをあれこれ言い散らしながら、問題の周辺をうろうろするばかりで、その理由がきちんと文章に反映されないのです。ですから、(8)について改めて筆者に聞いてみれば、おそらく筆者はそう簡単にその理由を答えることはできないでしょう。
　このような場合、自分で自分の発想の流れをなるべくきちんと整理しようとするのは当然のことですが、もし自分でそれができないのなら、添削をする先生が、それは「自分をさらさない場合、発言に責任を取る必要がないので、どうしても無責任になりがちになるからだ」と教えて、この文章を書く目的が、「自分の文章に責任を持つ姿勢を促すことだ」ということを指摘してやることも必要でしょう。 
　また「便所の落書き」というのは比喩です。こういう表現は確かに効果的です。しかし、その部分が大切であればあるほど、それがどのようなことを例えているのかということをはっきりと読者に感じさせなければいけません。そうしないと、「表現は気が利いていて何か書いているような気がするのだけれど、正確にその内容を表現しようとすると、どうもよく分からない」というようなことになってしまいます。
　ですから、ここは野暮な表現になってしまうかもしれませんが、「無意味・無価値なだけではなく、はた迷惑でさえある」というような、比喩の指す内容を、もう一度はっきりさせてもよいところです。

　さて最後に、しかしこの文章にとって最も重要な問題として(9)(10)を考えてみましょう。
　最も重要な問題というのは、「この文章を筆者が書く目的は何か」ということです。何を述べ終わった段階で、「この文章を筆者が書ききった」といえるのでしょうか。
　(9)のように「そのこと」すなわち、「我が身をさらした発言以外は、便所の落書きに等しい」ということでしょうか。それとも(10)のように、「そのこと」を認識すれば、「言葉の選択の仕方は、おのずからかわってくる」ということでしょうか。筆者は(9)(10)のような書き方をしていますが、本当はそのどちらでもないはずです。
　この文章を書く目的は、先にも述べた通り、「我が身をさらした発言がなぜ大切なのか」を考えて、「自分の文章に責任を持つ姿勢を促すこと」でなければなりません。その目指す目的を筆者自身がしっかりと捉えていれば、(9)(10)の部分は、たぶんこのような展開にはなりません。
　百歩譲っても、「言葉の選択の仕方は、おのずと変わってくる」と書いて、どう変わってくるかを全く説明しないような文章は、「こんな気がするけど、核心の所は私は分からないから、考えてね」と言っているようなもので、無責任きわまります。


<div class="title-left">それではどう推敲するか</div>
　以上分析がずいぶん長くなりましたから、書き直す場合の要点を整理しましょう。
　まず、この文章を書く目的をしっかりと把握しましょう。「自分の文章に責任を持つ姿勢が大切」ということでしたね。これを読者に納得させるために、何をどの順番で書いていけばよいかを考えていきましょう。(3)(4)(7)のあたりの関係を考えながら、整理して書きます。
　そして、文章を書く上で取り込めない、(1)(2)などは、推敲の段階で書くのを諦めてしまいます。
　さあ、以上のことをふまえて、例文を自分なりに推敲してみてください。
　必ず実際に自分で答案を作ってみてくださいよ。

　その時注意することは、表現や部品はある程度自由に変えていってかまいませんが、述べたいことの中身を変えないということです。そのことだけは注意してやってみてみましょう。
　次項に生徒の推敲例を載せてみます。]]>
      
   </content>
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   <title>未整理の思考（例題）</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.syouron.com/nyuumon/2007/02/post_34.php" />
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   <published>2007-02-02T16:56:17Z</published>
   <updated>2018-12-15T13:48:33Z</updated>
   
   <summary><![CDATA[　『ねこの小論文・作文講義』&lt;未整理の思考&gt;P33を見ると、「こんな...]]></summary>
   <author>
      <name>Neko Fumio</name>
      
   </author>
   
      <category term="0600-思考の整理" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.syouron.com/nyuumon/">
      <![CDATA[　『ねこの小論文・作文講義』<a href="http://www.syouron.com/nekoron/2/2007/02/post_40.php">&lt;未整理の思考&gt</a>;P33を見ると、「こんなに整理できていない文章を書く人はよっぽどの人で、自分はそんなにひどくはない」とたいていの人が思っているはずです。しかしそれは程度の問題で、頭の中の整理を十分にしない結果、よく分からない文章を書いてしまうことはプロの作家でも、ましてや大学の教授でも、割合とあることなのです。
　この項ではその実例について考えてみましょう。

<div class="title-left2-syou"><strong>例題１</strong></div><div class="reibun">　「心の単純化」に陥らないために　大石　静</h4><br>　パソコンも、コトバと同じように急速に進化しているが、パソコンを操れるというだけで、操れない人より上に自分を位置づけている人が多い。いろいろなサイトに顔を出し、<u>自分は身を隠したまま発言を続ける</u>人の使っている言葉には、多くの場合、どこか奇妙なニュアンスがある。見知らぬ人の、見知らぬ部分への配慮や敬意に欠けた精神が、パソコンのキーボードから打ち出す言葉に、私はいつも抵抗を持つ。<br>　敬語や丁寧語の乱れと消失─これも言葉の進化の重要な一面であろう。他者との距離感や敬意が薄れたことが、敬語や丁寧語の消失を招いた原因であることは明らかだ。<br>　誰でも対等、誰に何を言っても平気、表現することの恐ろしさも知らず何か語っていれば、黙っていることより価値がある、という風潮も危険だ。過激な言い方だが、我が身をさらした発言以外は、便所の落書きに等しい。そのことを認識すべきだろう。そうすれば、あえて発言する時の言葉の重さ、言葉の選択の仕方は、おのずと変わってくると、私は思う。<br /><br />
<div class="inyou"><strong>問</strong><ol style="text-align: left"><li>　この文章を読んで、文章の完成度について感想をいいなさい。 </li><li>　この文章では、一つの段落にはせずに、どうしても段落を二つに分けた方がよい部分があります。分けるとき段落のはじめになる部分の最初の五文字を答えなさい。</li><li>　下線部で、「自分は身を隠したままの発言」と対照的な意味の表現を本文中から抜き出して答えなさい。 </li><li>　下線部で、「自分は身を隠したまま発言を続ける人」の価値観を、本文中の言葉を使って答えなさい。 </li><li>　下線部で、「自分は身を隠したまま発言を続ける人」が陥ってしまいがちな心理的傾向について、本文中の言葉を使って答えなさい。 </li><li>　下線部で、「自分は身を隠したまま発言を続ける人」を生んだ社会的背景の一つだと筆者が考えていると思われることを、本文中から抜き出して答えなさい。 </li></ol></div>

</div>


<div class="title-left">例文は教科書の文章だ</div>
　例文は教科書（『新編現代文』大修館書店）の文章なので、さすがに書いている内容については面白いものを含んでいます。ただし、「文章の完成度」という点からすると今一歩というところ。
　まずは問題に答えておきましょう。<div class="reiji"> <ol start="2" style="text-align: left"><li>　「いろいろな」。文章を書く時、形式段落の一つには一つの内容を書き、別の内容に移る時には、行を変え、一時下げて、段落を変えて書きます。（『ねこ』P19）
　この文章の形式段落の一つめは、「いろいろな」の前の部分と後の部分とで、言っている内容が全くつながっていません。それを一つの段落にしてしまうのは、「ここに書いていることがつながっていない」という認識が、筆者に全くないからです。</li><li>　もちろん「我が身をさらした発言」。 </li><li>　「誰でも対等、誰に何を言っても平気、表現することの恐ろしさも知らず何か語っていれば、黙っていることより価値がある」から、「誰でも対等、誰に何を言っても平気で、何か語っていれば、黙っていることより価値があるとする価値観。」 </li><li>　「見知らぬ人の、見知らぬ部分への配慮や敬意に欠けた精神」から、「見知らぬ人の、見知らぬ部分への配慮や敬意に欠ける傾向」 </li><li>　「他者との距離感や敬意が薄れたこと」 </li></ol></div>


<div class="title-left">上の設問から筆者の思考を整理すると</div>
　上の設問を参考に筆者の思考を整理すると、「自分は身を隠したまま発言を続ける人」は、「誰でも対等、誰に何を言っても平気で、何か語っていれば、黙っていることより価値があるという価値観」を持っていて、自分が表現したことが他人に与える影響など考えもしないので、「表現することの恐ろしさ」などには当然思い至らない。その結果、その発言は「見知らぬ人の、見知らぬ部分への配慮や敬意に欠ける傾向」がある。
　そのような人を生んだ社会的な背景としては、「他者との距離感や敬意が薄れたこと」が考えられ、それは、「敬語や丁寧語の乱れと消失」を生んだ原因でもある。


<div class="title-left">現代文の読み方をしてみよう</div>
　上の例題を、<a href="http://www.syouron.com/genbun_howto/houhou.html">現代文を読むとき</a>のように、文章の最初からできるだけこだわって読んでみてください。そのような読み方をしたとき、前後の因果関係がわかりにくいところが、筆者の思考が整理されないままに文章が書かれてしまったところです。
　この文章で、筆者の思考が整理されていないことが一番わかりやすいところは、問２で問題にしたところと、「敬語や丁寧語の乱れと消失」を突然筆者が言い出す形式段落の二段落目とです。
　前の所では、「パソコンを操れるというだけで、操れない人より上に自分を位置づけている人が多い」ということと、この文章で以後問題にしている「いろいろなサイトに顔を出し、自分は身を隠したまま発言を続ける人」との間にどんな関係があるのか、この例題にした部分だけではどう読んでもさっぱり分かりません。もしこの例題のような形で文章を書くのなら、最初から「位置づけている人が多い。」までの部分は、きれいさっぱり書くのを諦めるべきです。（このことについては、問題文を作る時「どこからどこまでを引用するか」という問題があるので、後からもう一度、取り上げます。）
　後の部分については、よくよく関係を考えれば、問６で取り上げたような関係で、他の部分とつながっているのだろうという推測はつきます。ただし、それは、筆者が書いたことを書いたように理解したのでは、文章を最後まで丁寧に読んでも分かりません。
　このような文章になってしまう原因は、筆者がこのようなつながっていない部分を書こうとするとき、自分ではそれ以外のところと、その部分と、頭の中で考えているときにはつながっている気になっているのだけれど、その関係を自分自身がはっきりと整理しないまま、文章にしてしまったからです。
　私がいつも言うように、頭の中というのは、かなり論理的に理屈を整理したつもりになっていても、このようにかなり未整理のままの状態です。それを、「うまいことつながりを説明できないな。」とか、実は、「問６で考えたような因果関係があるのだな。」とかいうように、さらに整理する努力をしないまま文章を書いてしまから、この文章のような、「何かつながりはあるのだろうけれど、どこでつながっているのか分からない」というような文章になるのです。
　この文章は、そのような事情をきわめてわかりやすく我々に見せてくれます。文章を書くとは、「頭の中の未整理な状況を、文章に書ける程度にまで整理していく」ということです（『ねこ』<a href="http://www.syouron.com/nekoron/2006/06/post_6.php">p5</a>）。自分自身がこのような文章を書いてしまわないように、この例を自分の文章を振り返る参考にしてください。


<div class="title-left">筆者が整理するのと、読者が読んでくれるのとは別のこと</div>　あなたは問５に答えることができたでしょうか。問いに答えることができた、さらに進んで、この問いを与えられなくても、この問いが聞いている因果関係について自分で気づくことができたとすれば、それは、筆者が整理し切れていない内容についてまで、読者が気づいたということです。
　優れた読者は、少々筆者が思考を整理せずに書いたような文章でも、このようにその因果関係を整理して読んでくれます。しかしだからといって、それは筆者が整理して書いたのとは別のことです。このような場合、極端にいえば、文章自体は未完成で、むしろ読者の方が優れた読解によって、「文章を完成させる手助けをしている」ということもできるのです。
　もちろんこの文章を読んでくださっているあなたは、読者の読解力に依存するようなこのような文章を書いてはいけません。読者が多少不注意でも、誤解される余地のない紛れる余地のない文章を目指さなければならないのは、いうまでもないことです。]]>
      
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   <title>自分の意見を必ず述べる</title>
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   <published>2006-03-22T20:29:59Z</published>
   <updated>2018-12-15T13:48:09Z</updated>
   
   <summary>主観を交えた文章が必ずしも主観的なわけではない 　文章が主観を表明するものだと言...</summary>
   <author>
      <name>Neko Fumio</name>
      
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      <category term="0110-主観" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.syouron.com/nyuumon/">
      <![CDATA[<div class="title-left">主観を交えた文章が必ずしも主観的なわけではない</div>
　文章が主観を表明するものだと言っても、主観を交えた文章が、必ずしも主観的な文章になるわけではありません。一般に主観的とは、「自分ひとりの考え方や感じ方にかたよる態度であること」（広辞苑）を言います。様々な条件を考慮に入れて、考え合わせた上で自分の最終的な判断を述べたのなら、それは主観を表明したものであっても、主観的な文章ではありません。
　むしろ世間的な言葉遣いからいえば、そのような文章なら、かなり客観的なものの見方ができているといえるのではないでしょうか。


<div class="title-left">自分の意見を必ず述べる</div>
　私たちは「客観的な文章を書こう」と意識すると、色々ある意見を並列に並べて、それらに対する「自分の意見などは書かない方がよい」と考えたりします。しかしそれでは、八方美人の日和見（ひよりみ）なだけで、「いろいろな考え方の中で、どう考えるのが最もよいのか」という筆者なら当然追求すべき努力を放棄してしまった無責任きわまりない文章になってしまいます。
　私たちはそのようなことにはならないように、自分の意見をしっかりと見定めて、文章を書く努力をするべきです。]]>
      
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   <title>文章を書くとは主観を表明する行為だ</title>
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   <published>2006-03-22T20:28:52Z</published>
   <updated>2018-12-15T13:47:33Z</updated>
   
   <summary>　文章を書くということは、自分の意見を主張する行為です。ですから、文章には必ず主...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.syouron.com/nyuumon/">
      <![CDATA[　文章を書くということは、自分の意見を主張する行為です。ですから、文章には必ず主観が含まれています。たとえ新聞のように、「自分の意見を主張しているのではない。事実を述べているだけだ」という態度を装っている文章でも、扱う事実をどのように選ぶかによって、読者に何かを読み取らせようとしているのですから、おおよそ文章である限り、主観の反映されていないものはありません。
　たとえば新聞のように事実だけを並べたような客観を装った文章でも、故意に偏った事実を選べば、いくらでも主観的な文章は書けます。子どもがよくいう言葉を思い浮かべてみましょう。<div class="reiji">　〜ちゃんも持っている。〜ちゃんも持っている。〜ちゃんはそれだけではなくてもっとすごい。
　持っていないのは、私だけだ。</div>この例を見れば、書き方の如何（いかん）に関わらず、主観的な文章を書こうとすれば、どうとでも書けるということがよく分かるでしょう。（『ねこ』<a href="http://www.syouron.com/nekoron/2/2007/02/post_56.php">P53</a>）]]>
      
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   <title>幼稚な体験ならない方がまだまし</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.syouron.com/nyuumon/2006/03/post_31.php" />
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   <published>2006-03-21T19:55:53Z</published>
   <updated>2018-12-15T13:47:09Z</updated>
   
   <summary>　ここまで、個人的な体験を書くことの効用を説明しました。このように書くと必ず、何...</summary>
   <author>
      <name>Neko Fumio</name>
      
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      <category term="0100-体験・現実" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.syouron.com/nyuumon/">
      <![CDATA[　ここまで、個人的な体験を書くことの効用を説明しました。このように書くと必ず、何が何でも個人的な体験を入れようとする人が出てきます。しかし、それで何も考えていない人でもすぐ思いつくような幼稚な体験を入れてしまうと、救いようのない文章になります。
　体験を入れるのは、「自分の言いたいことを一番象徴する事柄を一つだけ書いて、印象づけるためだ」ということをもう一度確認しておいてください。
　採点官は、小学生でも書けそうな具体例ばかりを読まされて、それをちょっと見るだけでもうんざりしているのですから。（『ねこ』<a href="http://www.syouron.com/nekoron/2/2007/02/post_4.php">P61</a>）]]>
      
   </content>
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   <title>送辞解答例</title>
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   <published>2006-03-21T17:15:47Z</published>
   <updated>2018-12-15T13:46:47Z</updated>
   
   <summary>とりあえず解答例を見比べてみよう 　前項の送辞の体験部分を埋める例題の解答例を２...</summary>
   <author>
      <name>Neko Fumio</name>
      
   </author>
   
      <category term="0100-体験・現実" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.syouron.com/nyuumon/">
      <![CDATA[<div class="title-left">とりあえず解答例を見比べてみよう</div>
　前項の送辞の体験部分を埋める例題の解答例を２つ並べてみます。読み比べてみてください。<br />
<div class="title-left2-syou"><b>解答例１</b></div><div class="reibun">　私が先輩方との思い出の中で一番印象に残っているのは、体育祭です。
　応援の係になった私は、振り付けがなかなか覚えられず、人より後れを取ってしまいました。そんな私に先輩方は付きっきりで振り付けを教えてくださいました。周りに迷惑をかけてしまい、応援の練習が辛くなっていた私に、「大丈夫だよ。ゆっくりやろう。」と声をかけ、私が分かるようにと、何度も根気よく丁寧に説明してくださったのです。<br>　応援の衣装を作ったり、音楽の編集をしたりと忙しいはずなのに、先輩は嫌な顔一つ見せませんでした。<br />　そんな先輩方だからこそ、「大丈夫。」という言葉に頼もしさを感じたのです。</div>
<br />
<div class="title-left2-syou"><b>解答例２</b></div><div class="reibun">　私が先輩方との思い出の中で先輩方のすごさを感じたのは、体育祭の応援練習でした。<br>　応援の練習の時に、分からないことがあると先輩方はとても優しく、丁寧に指導をしてくださいました。声出しの練習をしている時には、先輩方の厳しい指導を受けました。でも、その厳しさの中に先輩方の熱き思いがあることを身をもって実感しました。<br>　そして、大勢いる仲間をまとめ上げたその姿に、すごさを感じたものです。</div>
　細かい表現はさておき、前の例文の方が、先輩の懸命さや熱心さの具体的な姿を描いている分、後ろの解答例より、すんなりとそのイメージが伝わることが分かるでしょうか。いくら「優しい」「厳しさの中に先輩方の熱き思いがある」と抽象的な言葉を重ねても、その姿をイメージさせる具体的な内容の描写がなければ、読者はすんなりと、それを受け入れてはくれません。
　この例題では、このような具体例の効用や使い方を実感してください。
　<a href="http://www.syouron.com/nyuumon/2006/03/post_17.php">前の作文のページ</a>で「作文の場合には、何か主張したいことの裏付けとなる具体的なエピソードや考え方などが絶対に必要だ」と書いたのは、このようなことなのです。


<div class="title-left">他の解答例でもう一度確認しておこう</div>
<div class="title-left2-syou"><b>解答例３</b></div><div class="reibun">　私が先輩方との思い出の中で特に印象に残っているのは、部活動です。<br>　先輩方は、部員みんながよい環境で練習できるようにと、部長を中心として部員を引っ張ってくださいました。練習では、きつい練習でも、率先して練習して、先輩方もきつくて辛いはずなのに、私たちに声をかけあって、励ましてくださいました。<br>　その結果、私たちは、先輩方の後を追いかけて、ここまで走ってくることができました。<br>　私たちはそんな先輩方の姿を見て、とても頼もしく感じました。</div>
<div class="title-left2-syou"><b>解答例４</b></div><div class="reibun">　私は野球部に入っています。家族より長い時間一緒に過ごした部活動で、私には今でも忘れられない光景が一つあります。<br>　夏、本当にツラい時期での練習に、みんなふらふらでした。そんなとき、一人の先輩が個人ノック中に倒れてしまいました。先輩方はすかさず駆け寄って、「絶対に負けるな」と言って腹の底から声を張り上げて応援したのです。そして、ノックが終わった後、先輩方が寄り添い、抱き合っている姿からは、本当の絆というものを感じることができました。</div>
　今度は、抽象的で具体的な姿を描かない文章と、イメージを読者にきちんと説明している文章とを逆に並べてみました。これらを読み比べれば、読者に具体的な例を示して、イメージを自分で持ってもらうことがどういうことなのか、そしてそれが大切な理由も一目瞭然でしょう。


<div class="title-left">例を見るとどうしても例に引きずられすぎる</div>
　例を見て、本質的なところだけを感じ取ってもらえればよいのですが、作文・小論文を練習しようかという人は、例文を見るとどうしてもその例に引きずられてしまって、自由な発想で、自分で自由に文章を構成するということができにくくなってしまいます。
　上の例文でも、最初の問題の所に載っている文章に引きずられて、もっと書き方がいくらでもあるはずなのに、もとの例文をそのまままねている部分がいくらか見受けられます。
　例えば、「私が先輩方との思い出の中で一番印象に残っているのは〜」などというのは、紋切り型です。この空欄にこのような内容を書けばよいだけであって、必ずしもこういう書き出しで始める必要はありません。この場合むしろ、最後の解答例のように「私は野球部に入っています。」とすぐに入った方が、すっきりするのではないでしょうか。
　送辞など、声に出して読む文章は、目で文章を追うだけのものほど、つながりをすべて文章でつないでいかなくても、話の内容が変わることを、段落と段落の間をあけて読むことで分からせることができます。そのような音読する文章特有の特徴を考えれば、「私が先輩方との思い出の中で一番印象に残っているのは〜」などというつなぎの文章を入れない方が、かえってインパクトが強くなることがあるのも理解できるでしょう。
　また、「そんな先輩方を見て、〜」も紋切り型です。例題の囲みのすぐ後の、「部活動で、○○デパートで、○○祭で、先輩方とのそんな思い出は尽きません。我々在校生は、今、それぞれの胸の中に、先輩方との大切な思い出をかみしめています。」の部分を含めて考え直せば、さらにもっと色々な書き方を工夫できるはずです。


<div class="title-left">私の本に例文をあまり入れない理由</div>
　上の説明を読んでいただければ、作文を説明する本でありながら、私が例文をなるべく入れようとしない理由を、分かっていただけたでしょうか。（『ねこ』<a href="http://www.syouron.com/nekoron/3/2007/02/post_18.php">P75</a>）
　例えば、推敲の例として、『ねこの小論文・作文講義』では、「少子高齢化」の問題を取り上げました（『ねこ』<a href="http://www.syouron.com/nekoron/2/2007/02/post_40.php">P33</a>〜）。なるべく問題意識を深めないように注意して作った例文であるとはいえ、文章の筋を通すやりかたの説明ですから、普通の高校生が思いつく以上には、きちんと筋を通してあります。
　このような例を読んでしまって、なおかつ自分で筋を通して自由に文章を書くのは、実はとても困難なのです。ですから、この例文を読んでしまった人は、少なくとも文章を書く最初の課題としては、「少子高齢化」を避けるようにする方が、おそらくノウハウの習得には早道でしょう。]]>
      
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   <title>個人の体験が説得力を強める</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.syouron.com/nyuumon/2006/03/post_29.php" />
   <id>tag:neko.s6.coreserver.jp,2006:/www.syouron.com/nyuumon//2.442</id>
   
   <published>2006-03-20T16:03:59Z</published>
   <updated>2018-12-15T13:46:28Z</updated>
   
   <summary>　作文においても、小論文においても、自分が訴えたいことを象徴的に印象づける個人的...</summary>
   <author>
      <name>Neko Fumio</name>
      
   </author>
   
      <category term="0100-体験・現実" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.syouron.com/nyuumon/">
      <![CDATA[　作文においても、小論文においても、自分が訴えたいことを象徴的に印象づける個人的な体験を一つ入れることによって、説得力が増し、文章が生きてきます。
　この項では、生徒会に携わってでもいない限りほとんどの人が書くことがないであろう、卒業式の送辞を取り上げてみます。送辞は、作文でも小論文でもありませんが、そのどちらにおいても、この例の個人的な体験の使い方は参考になるでしょう。

<div class="reibun">　　　<b>送辞</b>

　三年生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。


　皆さんが入学されてから今日までの三年間、いろいろなことがあったと思います。

　○○定期戦、○○デパート、まだ記憶に新しい○○祭。その間、先輩方はいつも一生懸命に全力を出して取り組み、そうしながらも、一方で私たちを助けてくださり、正しい道を教えてくださいました。

　これらの先輩方と過ごした日々を通して、私たちには今、先輩方とのたくさんの思い出があります。

<div class="reibun">　私が先輩方との思い出の中で、特に印象に残っているのは、生徒会での活動でした。<br>
　昨年度十一月、新生徒会執行部が信任されたとき、三人の先輩を含めメンバーは全員が生徒会未経験者でした。そんな初めてづくしの中、先輩方はよりよい結果になるように、みんなで考えていこうと、いつもがんばっていました。私たちと同じような経験しかないはずなのに、先輩方は、私たちをリードして率先して生徒会をひっぱり、私たちのよき見本となってくださったのです。<br />
　私たちはそんな先輩方をみて、一年の年の差をとても大きなものに感じたものです。</div>

　部活動で、○○デパートで、○○祭で、先輩方とのそんな思い出は尽きません。我々在校生は、今、それぞれの胸の中に、先輩方との大切な思い出をかみしめています。


　昨年度生徒会では、「一所懸命」という言葉を何度も使ってきました。私はこの「一所懸命」という言葉こそ、先輩方から私たち在校生への大切なメッセージだと考えています。このたった四文字の言葉の中に、私は先輩方の愛さえ感じます。「目の前のことからこつこつと」「そして、いずれは学校全体を動かそう」というのは、先輩方の前向きな熱意であり、私たちへのメッセージでもあります。


　先輩方が今日卒業なさることは、目の前の支えを失うようで、不安でもあり、寂しくもあります。ですが、大切な先輩方の大切な門出を、私は今、心から拍手でお送りしたいと思います。
　私たちも先輩方のお姿を思い出し、先輩方の思いを受け継いで、これからの○商で精一杯の努力をしていきます。

　これから○商を巣立ち、旅立っていかれる先輩方、「一所懸命」を合い言葉として、ともに私たちとがんばってきた日々を、これから困難な社会に立ち向かっていく心の糧として、どうぞご健康で、困難にくじけることなく進んでいってください。

　先輩方がますますたくましくなられ、また私たちに会いに来てくださることを心からお待ちしております。


　　平成○○年三月○日

　　　　　　　在校生代表　　　　○　○　○　○</div>

　送辞で大切なのは、同じ学校の空気を吸い、共に頑張ってきた仲間であり先輩でもある卒業生に、尊敬の気持ちを込めながらエールを贈るということです。
　在校生と卒業生との関わり方は、それこそそこにいる人の数だけ違い、そこには共通する具体的な体験などはありません。そのような人たちを代表して、「共に歩んできた共感」を表現するのはとても困難です。しかし、それをしないと、来賓の祝辞と同じで、当事者意識を感じさせない、どこかよそよそしいものになってしまいます。
　そこでどうするかですが、意外に感じるかも知れませんが、先輩とのもっとも切実だった私個人の体験を、一つだけ述べるのです。もちろんその体験は、私個人のものですから、他の人には全く関係がありません。
　しかし、その体験が私にとって切実なものであることを印象づけることができれば、「そういえば、同じような体験を自分もしたなあ」と、聞く人に自分の体験を重ね合わせて思い浮かべてもらうことができます。
　つまり、
<div class="reiji">　私はこういう切実な体験をした。
　これと同じような体験をみんなしたことがあるでしょう。だから〜</div>というような話の持っていき方です。それが、中囲みから、それに続く「部活動で、○○デパートで、○○祭で、先輩方とのそんな思い出は尽きません。」の部分です。
　これを見れば、この個人的な体験が効いているから、「我々在校生は、今、それぞれの胸の中に、先輩方との大切な思い出をかみしめています。」が、ただ上っ面な言葉としてではなく、実感を伴って聞こえてくることが分かるでしょう。


<div class="title-left">自分でも中囲みの部分を考えてみよう</div>

　練習問題として、中囲みの部分を空欄にして、そこに自分の体験を元にして、卒業生を泣かせるべく、一つのエピソードを入れてみましょう。
　ここでの注意点は、「もっとも切実なものを、一つだけ、なるべくだらだら長くならないように」ということです。
　この例題を練習しておけば、就職試験などで課される「私の高校生活」という題の作文にも応用が利くはずです。]]>
      
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   <title>小論文も個人的な体験をないがしろにしてはいけない</title>
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   <published>2006-03-20T13:40:05Z</published>
   <updated>2018-12-15T13:45:16Z</updated>
   
   <summary>　作文が「私個人」について書くことだとすれば、小論文は世間のある問題について「一...</summary>
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      <name>Neko Fumio</name>
      
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      <![CDATA[　作文が「私個人」について書くことだとすれば、小論文は世間のある問題について「一般的な考察」を加えるということです。
　このような説明をすると、「小論文に個人的な体験を書くなどもってのほかだ」というような発想になってしまうかもしれません。しかし、そのような発想に陥（おちい）ってしまうと、現実の物事の姿を見過ごして、「こうあるべきだ」というような建前を振り回した文章を書いてそれでよしと考えてしまう危険性があります。
　たとえば、『ねこの小論文・作文講義』<a href="http://www.syouron.com/nekoron/2/2007/02/post_54.php">P50</a>では、病院内での携帯電話の使用について考える例を説明しました。「バスや病院の中での携帯電話の使用を許してもよいか」と聞かれれば、ほとんどのよい子の受験生は、「許してはいけない」と答えるでしょう。理屈だけを考えるなら、それ以外の論理展開の可能性はもちろんありません。
　しかし、現実の私たちの生活を振り返ってみるとどうでしょうか。実際に「携帯電話の使用はご遠慮ください」と張り紙のある病院で、携帯電話を使うのを危機意識を持って眺めている人は本当に少ないでしょうし、まして、高校生が論理展開するように、「もしかしたらペースメーカーを使っている人がいるかもしれないから、公共交通機関で携帯電話の使用をやめろ」などと本気で同乗の客に向かって説教したとしたら、逆ギレされるのがおちではないでしょうか。
　このような現実を無視した抽象的な議論に走ってしまう原因は、自分たちの置かれた現実・具体的な状況を無視して、建前だけの抽象的な議論をしてしまうところにあります。小論文で要求されるのは、問題についての「一般的な考察」だといい、「抽象的な考え」だといいます。しかしそのような「一般的な考察」や「抽象的な考え」は、現実を無視していては絶対に手に入りません。というより、現実があるからこそ、それらの現実相互の背後にある共通の要素を取り出したものが、「一般的な考察」や「抽象的な考え」になるのです。
　ですから我々は、抽象的な議論をしようとするとき、常に自分たちが直面している現実と照らし合わせてみて、「それが本当に正しいのか」ということを自問自答するようにしなければなりません。（『ねこ<a href="http://www.syouron.com/nekoron/2/2007/02/post_4.php">P61</a>』）


<div class="title-left">小論文にも個人的な体験を書けばよい</div>
　このように考えれば、小論文においてもあながち個人的な体験を書くべきではないとはいえないことが分かるでしょう。個人的な体験が、ただ個人的な体験のままで終わらずに、我々の関わっている現実の問題を深く考えさせてくれることなら、むしろそれを書くことによって、私たちの主張はより説得力を増します。具体と抽象の間を往復しながら、誤った抽象に陥らないで、たどり着いた抽象をみんなに本当に納得してもらうために、うまく自分たちの個人的な体験を活用したいものです。]]>
      
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   <title>作文における自分のアピールの仕方</title>
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   <published>2006-03-16T08:00:26Z</published>
   <updated>2018-12-15T13:44:47Z</updated>
   
   <summary>欠点など書かずに、長所だけを書く 　作文の場合、あなたの「積極的に生きようとする...</summary>
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      <name>Neko Fumio</name>
      
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      <![CDATA[<div class="title-left">欠点など書かずに、長所だけを書く</div>

　作文の場合、あなたの「積極的に生きようとする、学ぼうとする姿勢や豊かな感受性」をアピールしなければなりません。
　ところが、多くの人は自分に自信を持っていないため、自分の欠点を書いておいてから長所についても述べなければ公平性を欠くというような考え方をします。しかしここで書かれる欠点は、読む側からすれば、言い訳としか映りません。
　作文を書く場合には、欠点などは一切書かずに、「自分の一番アピールできるポイントはここだ」とストレートにそれだけを主張しましょう。（『ねこ』<a href="http://www.syouron.com/nekoron/2006/06/post_10.php">P10</a>）

<div class="title-left">長所を読み取らせることが必要</div>
　「私には○○の長所があります」と書いただけで、「ほおそおか、そんな長所を持っているんだ」と信じてくれる人がいると考えるのは、よほどおめでたい考えです。普通人は、「私は人を思いやる」「優しい」「感受性がある」などといっても、「本人はそのつもりなんだろうけれど、本当にそうかな」と思ってしまいます。
　ですから、自分の良さを人に感じ取ってもらうためには、抽象的な「思いやりがある」「優しい」「感受性がある」といった言葉を連ねただけでは意味を持ちません。むしろそのような言葉を一切書かずにおいて、自分が人を思いやった最も典型的な事例についてのエピソードを書くのです。そのことによって、「思いやりがある」と一切自分では書かないのに、いやむしろ書かないからこそ余計に、「ああ、この人は思いやりがある優しい人なんだな」と思ってくれるのです。
　このように作文の場合には、何か主張したいことの裏付けとなる具体的なエピソードや考え方などが絶対に必要です。そのようなエピソードや前向きに取り組んでいることの証（あかし）となるような思考を綴（つづ）っていくことで、自分の「積極的に生きようとする、学ぼうとする姿勢や豊かな感受性」をアピールするというのが、作文の書き方です。（<a href="http://www.syouron.com/nekoron/2006/06/post_10.php">『ねこ』P9</a>）]]>
      
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   <title>補足　京都書房の『国語表現?』の名誉のために</title>
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   <published>2006-03-16T07:47:41Z</published>
   <updated>2018-12-15T13:44:21Z</updated>
   
   <summary>　ここまでこの添削につきあっていただいて、あなたは「京都書房の『国語表現?』の教...</summary>
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      <name>Neko Fumio</name>
      
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      <category term="0095-言いたいこと" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.syouron.com/nyuumon/">
      　ここまでこの添削につきあっていただいて、あなたは「京都書房の『国語表現?』の教科書はなんてひどいんだ」と思っているかもしれません。
　しかし、この教科書の名誉のために言っておきますが、この教科書はおそらく現在の国語表現の教科書の中では一番ましな部類だと思います。国語表現の教科書は、色々書いていても、それを実際に使って、生徒に作文を書くための有効な練習をさせることはほとんど不可能ですから。
　そんな中、この京都書房の教科書は使える教科書を作ろうという意気込みでまじめに作られています。本当にこれを使えばうまくいくかということは別にして、少なくともその意気込みを感じさせる貴重な一冊です。
　ねこ（私）は、教科書が一冊もできていないのに国語表現という教科が見切り発車の形で始まるそのまだ前から、長いこと作文を教えていますが、教科書を使って授業をしたことはおそらくほとんどありません（キッパリ！）（......こんなことを暴露して、本当に首にならないんだろうかね。）
　そのねこに、３ページも、何時間もかけて本気で授業をする教材を提供してくれたのですから、「この教科書は偉い！」
　馬鹿にしたような、めちゃめちゃ変なほめ方ですが、悲しいかな、これが日本の作文教科書の実態なんです。

　一日も早く、「その文章で言おうとすることに向かって、それを構成する部品たちをすべてきちんと役割を持って働かせる」ことをおろそかにしない体系化された作文の教科書（参考書）が出現することを願います。

　私のものですか。私のものは、「体系化された方法論」というところまでにはなっていないので、「ねこ先生なら指導できるんでしょうが」とすぐに言われてしまいます。「何を言いたいかにきちんと向かう文章」ということを考えて、私の本も参考に生徒の文章に本気で向き合えば、私が説明しようとしていることは、そんなに難しいことではないと思うんですがねえ。
　「もうちょっと、分かろうと努力してくれないのかな。」とは常々感じるところです。

　しかし、私の方も体系化の努力はさぼっています。他力本願でいい参考書が出てくればいいのですが。
      
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   <title>「あなた」という呼びかけ</title>
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   <published>2006-03-16T07:46:03Z</published>
   <updated>2018-12-15T13:43:54Z</updated>
   
   <summary>　「相手の個性を消し去って、見かけの年齢だけで一まとめにする呼びかけ」だから、「...</summary>
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      <name>Neko Fumio</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.syouron.com/nyuumon/">
      <![CDATA[　「相手の個性を消し去って、見かけの年齢だけで一まとめにする呼びかけ」だから、「おじいさん」「おばあさんと」呼びかけるべきではないという話しを、ここまでかなり長い間取り上げてきました。
　「おじいさん」「おばあさんと」と呼びかけるのは、「デパートで働いている店員や交通機関で働いている人たちに、「おねえちゃん」「おにいちゃん」と呼びかけるのと同じく失礼」なのでした。
　これをここまで推敲してきたあなたに、ここで書いたことに対する実感があるでしょうか。アルバイトでもしていなければ、「おねえちゃん」「おにいちゃん」と呼びかけられることもなく、まして高齢者でもないあなたにです。
　ある程度「相手の個性を消し去って、見かけの年齢だけで一まとめにする呼びかけ」の失礼さへの実感がなければ、いくら理屈ばかり一生懸命考えてみても、この添削はおそらく非常に難しかったのではないでしょうか。
　ここでは「相手の個性を消し去って、見かけの年齢だけで一まとめにする呼びかけ」の失礼さをもっと実感していただくために、ちょっと別の話をしておきましょう。


<div class="title-left">セールスにおける「あなた」という呼びかけ</div>
　今や広告社会です。パソコンを開けば、あなたの元には、知っている会社からも、全く知らないところからもそれこそ山のようにメールマガジンが届けらています。
　このような個人向けの広告の世界で今や常識となっているのが、「メールに名前を入れる」「『あなた』と呼びかける」ということだそうです。
　あなたが広告のメールを受け取ったとき、「皆さん」と言われたときと、「あなた」と呼びかけられたとき、どちらが「読んでみよう」という気になるでしょうか。
　名前入りのダイレクトメールと、新聞広告のチラシのような、大勢の人を対象にしたと思わせるダイレクトメールと、どちらに親しみを感じるでしょうか。
　セールスの世界では、「『皆さん』にお勧めしているのではなく、ほかならぬ『あなた』（だけ）にお話をしているのですよ」という雰囲気をお客に感じ取らせることが成功の秘訣なのだそうです。
　結局人間はどこまで行っても、自分だけを特別な存在だと認めてほしい、そういう存在なのです。そのような我々の欲求に訴えかけようとするのが、名前入りの手紙であり、「あなた」という呼びかけなのです。

　今ここを読んでくださっている「あなた」は、ここまで「言いたいことに向かう文章」の章を読み進んできてくださった方でしょうか。
　だとすれば、あなたがここまで途中やめにせずに読んでくださったことに、私がこの章を書くときに使ってきた「あなた」という呼びかけが少しは功を奏したかもしれません。
　「『あなた』と呼びかける」というセールス広告の秘訣を知って、この章を書くときに私も応用してみました。
　もしあなたが、この「『あなた』と呼びかける効用」を実感できたとしたら、高齢者が名前を呼ばれるときと、「おじいちゃん」と呼ばれるときと、どちらが自分の存在感を自覚できるかは想像できるでしょう。
　この例題に書かれたことは、非常にあっさりと書かれてはいますが、突き詰めてみれば、まだまだ深くつっこんで考えることができる問題なのです。]]>
      
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   <title>原作者の意識の流れを大切にした添削（添削最終稿）</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.syouron.com/nyuumon/2006/03/post_24.php" />
   <id>tag:neko.s6.coreserver.jp,2006:/www.syouron.com/nyuumon//2.437</id>
   
   <published>2006-03-16T07:45:07Z</published>
   <updated>2018-12-15T13:43:30Z</updated>
   
   <summary>　さてこの添削課題もいよいよ大詰めです。気合いを入れて行きましょう。 【例文1-...</summary>
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      <name>Neko Fumio</name>
      
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      <category term="0095-言いたいこと" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.syouron.com/nyuumon/">
      <![CDATA[　さてこの添削課題もいよいよ大詰めです。気合いを入れて行きましょう。

<div class="reibun"><strong>【例文1-2】</strong><br />
　(1)街頭インタビューで、高齢者に「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼びかけるインタビュアーを見かける。(2)そのうえ、「おいくつですか。」「お元気ですね。」などと言っている。<br />　(3)高齢者に聞くと、多くの人は自分が老人だとは意識していないという。(4)高齢者に対して、「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼びかけるべきではない。(5)電車の中で席を譲られて機嫌をそこねる高齢者もいる。(6)自分の祖父母でもない人に、「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼びかけるのは、デパートで働いている店員や交通機関で働いている人たちに、「おねえちゃん」「おにいちゃん」と呼びかけるのと同じく失礼である。<br />　(7)友人が勤めている病院では、医師や看護師が高齢の患者を「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼ばず、その人の名前で呼んでいるという。<br />　(8)自分の孫でもない他人、それも一人前の大人から、「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼びかけられたときには、「自分も、そんな年に見えるのか。」とショックを受けるだろう。(9)相手の個性を消し去って、見かけの年齢だけで一まとめにする呼びかけはやめるべきだ。<br />
<br /><br />
<div class="inyou">
<strong>問</strong><br />
<ol><li>(3)(5)(8)の認識と(6)(9)の認識とでは、どちらがより本質的な問題意識を含んでいますか。</li><li>(3)(5)(8)の意味のつながりを考えて、並べ方を工夫しましょう</li><li>(3)(5)(8)の部分を生かしながら、(6)(9)の認識の部分をメインに据える文章に添削してみましょう。文章は自由に書き換えてかまいませんが、できるだけこの文章にある素材は生かすようにしてください。</li></ol>
</div></div>（※この例文1-2は、京都書房『国語表現?』の教科書P20を元に段落分けをしています。）<br />
<br />
<div class="title-left">問題解決のヒント</div>
　問１の答えは、もう迷いもなく(6)(9)でした。<a href="http://www.syouron.com/nyuumon/2006/03/post_33.php">「個性を消し去る」を生かす添削</a>の項でも考えたように、(6)(9)と(3)(5)(8)の部分とは違うことを言っているわけですから、普通に書いていては、(6)(9)の認識の部分と、(3)(5)(8)の部分とが分裂してしまいます。さて、「それをどう克服するのか」というのがこのページのテーマでした。<br />
　「そんなのもう分かっているよ。」「何度もくどすぎる。」でしょうね。

　「普通」に書いていてはだめなのです。重さに違いがあるなら、そこをきちんと説明しておかないといけません。

　そこで使えそうなのは。
　「起承転結」です。『<a href="http://www.syouron.com/nekoron/">ねこの小論文・作文講義</a>』をもうしっかり読んでいただいている方からは、「お薦めしないといっていたじゃねえか。」という声が聞こえてきそうですが。
　「<a href="http://www.syouron.com/nekoron/2007/02/post_36.php">『起承転結』は練習するな</a>」で説明したとおり、高校生が小論文・作文を書く場合、一般的には「起承転結」は使わない方がよい場合が多いのです。この説明を書き出すと『講義』の説明をまた繰り返さなければいけませんから、「起承転結」とはどういうものかも含めて、もう一度必ず「<a href="http://www.syouron.com/nekoron/2007/02/post_36.php">『起承転結』は練習するな</a>」を復習しておいてください。

　さてそれでこの問題の場合ですが、
<div class="reiji">承......一般にみんな(3)(5)(8)のような理由でいけないと思っている。
転......実は、(6)(9)の様な本質的な問題が隠れていたんです。
結......だから、......</div>
　こうやればうまくいくような気がしませんか。

　さてこれで本当に終わりです。自分で答案を作ってみて、いざ最終添削例に行きましょう。
　これまでの添削例では、問２の「(3)(5)(8)の意味のつながりを考えた順番」にまでは気を配れていませんから、そこらあたりも直しておきましょう。


<div class="title-left">最終添削例</div>

<div class="reibun"><strong>【例文5】</strong>　　（下線部分は文章の改変箇所）<br />
　(1)街頭インタビューで、高齢者に「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼びかけるインタビュアーを見かける。(2)そのうえ、「おいくつですか。」「お元気ですね。」などと言っている。<br />　(3)高齢者に聞くと、多くの人は自分が老人だとは意識していないという。(8)自分の孫でもない他人、それも一人前の大人から、「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼びかけられたときには、「自分も、そんな年に見えるのか。」とショックを受けるだろう。(5)電車の中で席を譲られて機嫌をそこねる高齢者もいる。<br />　(4改)<u>だが、高齢者が、「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼びかけられて不快に感じることには、もっと本質的な問題が含まれている。</u>(6改)自分の祖父母でもない人に、「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼びかけるのは、デパートで働いている店員や交通機関で働いている人たちに、「おねえちゃん」「おにいちゃん」と呼びかけるのと同じく失礼<u>なの</u>である。(9改)相手の個性を消し去って、見かけの年齢だけで一まとめにする呼びかけ<u>をされて嫌な気がするのは、「おじいちゃん」や「おばあちゃん」だけではないはずだ。</u><br />　(7)友人が勤めている病院では、医師や看護師が高齢の患者を「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼ばず、その人の名前で呼んでいるという。<br />　(+10)<u>このような高齢者に対する接し方を、今後我々も学ばなければならないのではないか。</u></div>


<div class="title-left">「起承転結」になったのは結果的にだ</div>
　この添削例では、結果的に「起承転結」の段落構成になっています。
　よく文章の構成を勉強させようとして、どこで「起承転結」になっているかを指摘させたりします。作文指導という観点から見ると、私はこういう指導があまり好きではありません。
　それは、文章というのは多くの場合、「起承転結」の文章を書こうとしてそうなったのではなく、自分の書こうとすることをなるべく整理していった結果、結果的に「起承転結」になった文章だからです。例文５の場合はまさしくそうでした。
　文章を書くのに大切なことは、「その文章で言おうとすることに向かって、それを構成する部品たちがすべてきちんと役割を担って働いている」ということでした。それ以外には何もありません。
　文書を「確かに〜しかし〜」だ、「起承転結」だ、「なるべく接続語を使う」だ、型から説明しようとする人は、往々にして、意味の流れを無視もしくは軽視してしまう傾向が強くなります。
　そのような指導者からまじめに指導を受けてしまうと、「何か部品は書いているけれど、そのつながりがどうしてそうなるのかどうも受け入れられない。」というような文章を平気で書くような不幸なことになってしまいます。
　そうならないために、たとえ型を意識する場合でも、その型を使うことで、「その文章で言おうとすることに向かって、それを構成する部品たちをすべてきちんと役割を持って働かせる」文章を目指すのだという気持ちを絶対に忘れてはいけません。]]>
      
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