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      <title>ねこの小論文・作文講義</title>
      <link>https://www.syouron.com/nekoron/</link>
      <description>小論文・作文に自分で取り組むための視点を与える総合教科書。きれいごとを排除して、小論文・作文を書く上で考えなければならないことを網羅し、気をつけるべきポイントを本音で語っています。</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2020</copyright>
      <lastBuildDate>Sat, 30 Jun 2007 06:33:19 +0900</lastBuildDate>
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      <item>
         <title>３．ボランティア</title>
         <description><![CDATA[<div class="title-left2-syou"><strong>問題</strong></div><div class="reibun">これからの日本の社会にとって重要であると思われる問題を一つ取り上げて、それについて八百字程度で論じなさい。</div>


　　（添削記号については、「<a href="https://www.syouron.com/nekoron/2007/02/post_16.php">凡例</a>」参照のこと）<div class="reibun">　　<strong>する人にとってのボランティアの意味</strong>

　人はなぜボランティア活動をするのだろうか。それは他人の問題は自分の問題でもあるという意識があるからだろう。言いかえれば、<u>我々が</u>（×なし）自分と他者<u>と</u>（×なし）のつながり<u>を信じているからだといえる。</u>（×であるが、）今日このつながりは広がりにおいても複雑さにおいてもますます規模が大きくなっている。その原因<u>は、</u>（×の一つは）現代の経済や情報が国際化している<u>ことにある</u>（×事であろう）。
　ここで生じる問題は、大きな問題に対して我々の力があまりに小さい<u>こと</u>（×事）である。具体的には、<u>世界の人々の</u>（×自分や他人の）痛み・苦しみ・病・死など<u>が、あまりにも私たちの手の届かないところにあるということ</u>（×なし）である。
　（×改行なし）病を否定し、死を遠ざける現代社会の中で、我々は他人の不幸をメディアによって<u>間接的な</u>（×浄化された）形で受け取り、自分だけは一生健康で生きられると思っている。しかし、<u>ボランティアに参加し、</u>（×なし）災害や貧困などを<u>目（ま）の当たりにすることで</u>（×目にして）、我々は他人の不幸に対する自分の無力を感じる。さらにこれをきっかけにして、逆に我々は人間が生と死<u>と</u>（×なし）の対立を同時に持って生きている存在であり、死がなければ生の輝きや尊さも分からない<u>こと</u>（×事）を確認するのだ。<u>こうして</u>（×なし）我々はこの無力感を通して他人の苦しみ、悲しみを知り、他人の視点に立つ<u>こと</u>（×事）が<u>でき</u>（×出来）るのである。
　このように、ボランティアとは、現代社会に欠けている豊かな生のあり方を行動によって手に入れようとするものであり、他人の生き方、すなわち<u>自分とは</u>（×自身の）別の生き方を<u>、</u>（×読点なし）今までの自分の中に取り込んで行く<u>こと</u>（×事）だと<u>い</u>（×言）える。
　（×改行なし）日本ではボランティアが「自己犠牲」や、「大胆な行動」と結びついて考えられがちだが、（×まず）「自分と他人<u>とが</u>（×が）、これまでとは違ったかかわり方が<u>できること</u>（×出来る事）を知る」（×事の）喜び<u>を、まず</u>（×が）正当に評価<u>する</u>（×される）べきだと私は考える。</div>

　この文章には、大人でもすぐには思いつかないようなユニークな深い発想がある。このような発想は、アドバイスを受けてちょっと考えたり、字句の修正をしたりする程度では絶対に手に入れることができないものだから、とても貴重だ。
　ただ惜しいことに、筆者が書いたままでは、文章の元になる考えの要素はあっても、それをしっかりまとめきるまでには至っていない。中途半端に把握している論理のつながりをもっときっちり自分でつないで、添削後の文章のレベルまでもっていく力を養うことが筆者の今後の課題だ。]]></description>
         <link>https://www.syouron.com/nekoron/2007/02/post_88.php</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">0110-第11章　小論文の実例</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 22 Feb 2007 17:13:08 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>再び、文章を書くということ</title>
         <description><![CDATA[　この本をまじめに最後まで読んでくれた君たちは、自分の文章を変えていこうとすれば、実は発想法・思考法を根本から変えていく必要があるということにもう気づいているだろう。
　これまで説明してきたように、文章を書くとは、自分独自の思考を表現することを目指して（<a href="https://www.syouron.com/nekoron/2/2007/02/post.php">ｐ59</a>）、頭の中でまだあやふやにしか分かっていないものを、文章という形にできるほどまでに明確に位置づけるという大変な作業（<a href="https://www.syouron.com/nekoron/2006/06/post_6.php">ｐ5</a>）である。だから一般に信じられているように、文章表現と内容とが別々で、表現をちょっと整（ととの）えさえすれば文章がまともになるなどというようなことはあり得ないのである。
　だがここまでまじめにこの本を読み、実践練習をしてきた君たちは、このことに気がつくと同時に、おそらく、文章を書く大変さの奥にある喜びにも気づいたに違いない。大変な思いをしながら思索（しさく）をめぐらせ、それを一つの「文章」という形にまとめきった時の喜びには計り知れないものがある。君たちはその喜びを糧（かて）として、小手先（こてさき）のテクニックや「表現の工夫」に走らず、ぜひとも文章の王道を目指してもらいたい。
　むろん、試験の一週間ほど前に先生のところにやって来て、「<strong>ちょっと</strong>見てもらえませんか。」などというのは、「<u>何をか言わんや。</u>」だ。]]></description>
         <link>https://www.syouron.com/nekoron/2007/02/post_89.php</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">0120-第12章　最後に</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 22 Feb 2007 18:16:28 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>再び、文章を書くということ</title>
         <description><![CDATA[　この本をまじめに最後まで読んでくれた君たちは、自分の文章を変えていこうとすれば、実は発想法・思考法を根本から変えていく必要があるということにもう気づいているだろう。
　これまで説明してきたように、文章を書くとは、自分独自の思考を表現することを目指して（<a href="https://www.syouron.com/nekoron/2/2007/02/post.php">ｐ59</a>）、頭の中でまだあやふやにしか分かっていないものを、文章という形にできるほどまでに明確に位置づけるという大変な作業（<a href="https://www.syouron.com/nekoron/2006/06/post_6.php">ｐ5</a>）である。だから一般に信じられているように、文章表現と内容とが別々で、表現をちょっと整（ととの）えさえすれば文章がまともになるなどというようなことはあり得ないのである。
　だがここまでまじめにこの本を読み、実践練習をしてきた君たちは、このことに気がつくと同時に、おそらく、文章を書く大変さの奥にある喜びにも気づいたに違いない。大変な思いをしながら思索（しさく）をめぐらせ、それを一つの「文章」という形にまとめきった時の喜びには計り知れないものがある。君たちはその喜びを糧（かて）として、小手先（こてさき）のテクニックや「表現の工夫」に走らず、ぜひとも文章の王道を目指してもらいたい。
　むろん、試験の一週間ほど前に先生のところにやって来て、「<strong>ちょっと</strong>見てもらえませんか。」などというのは、「<u>何をか言わんや。</u>」だ。]]></description>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">0120-第12章　最後に</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 22 Feb 2007 18:16:28 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>※何をか言わんや</title>
         <description>　直訳は「何を言おうか。いや、言うことなどありはしない。」要するに、甘すぎるということだ。</description>
         <link>https://www.syouron.com/nekoron/2007/02/post_90.php</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">0120-第12章　最後に</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 22 Feb 2007 18:22:22 +0900</pubDate>
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      <item>
         <title>※何をか言わんや</title>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">0120-第12章　最後に</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 22 Feb 2007 18:22:22 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>本書の例文について</title>
         <description>　この本では、作文・読書感想文の例を除いて、それほど君たちをうならせるほどすばらしい例文をあえて載（の）せないようにした。それは、すばらしい文章を見てしまうと、その文章の内容にとらわれてしまい、その分野では思考をそれ以上に自分で深めていくことがとても難しくなってしまうからである。
　だから本書ではあえて、文章の書き方、ものの考え方のこつが分かる程度の深さの例文にとどめてある。君たちは本書の例文の程度で満足することなく、「この本の例文はどうも底が浅くて。」といえるくらいにまで思考を深めていってもらいたい。</description>
         <link>https://www.syouron.com/nekoron/2007/02/post_91.php</link>
         <guid>https://www.syouron.com/nekoron/2007/02/post_91.php</guid>
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">0120-第12章　最後に</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 22 Feb 2007 18:23:22 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>本書の例文について</title>
         <description>　この本では、作文・読書感想文の例を除いて、それほど君たちをうならせるほどすばらしい例文をあえて載（の）せないようにした。それは、すばらしい文章を見てしまうと、その文章の内容にとらわれてしまい、その分野では思考をそれ以上に自分で深めていくことがとても難しくなってしまうからである。
　だから本書ではあえて、文章の書き方、ものの考え方のこつが分かる程度の深さの例文にとどめてある。君たちは本書の例文の程度で満足することなく、「この本の例文はどうも底が浅くて。」といえるくらいにまで思考を深めていってもらいたい。</description>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">0120-第12章　最後に</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 22 Feb 2007 18:23:22 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>実践からすべてが始まる</title>
         <description>　物事の方法についての説明には自（おの）ずから限界がある。どのような説明も、受け取るものの実践体験によって理解の深さが違ってくる。だから、この説明を読んで、あるいは説明を聞いてある程度のことを理解できたら、ともかく書いてみることだ。そして、いいかげんな書き方をしないことだ。指導を受けたら家に帰ってもう一度書き直してみる(推敲)。そうやって自分の考えを的確に人に伝えるための努力を積み重ねよう。
  そしてそうすれば、この本には今の君たちが受け取っている以上のことが書かれていることに、いずれ気がつくに違いない。
　私は、この練習を通して、君たちが「書く」ということに対して、いささかなりとも自信を持てる人になってくれることを願っている。</description>
         <link>https://www.syouron.com/nekoron/2007/02/post_92.php</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">0120-第12章　最後に</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 22 Feb 2007 18:24:46 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>実践からすべてが始まる</title>
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  そしてそうすれば、この本には今の君たちが受け取っている以上のことが書かれていることに、いずれ気がつくに違いない。
　私は、この練習を通して、君たちが「書く」ということに対して、いささかなりとも自信を持てる人になってくれることを願っている。</description>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">0120-第12章　最後に</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 22 Feb 2007 18:24:46 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>読書感想文を書こう</title>
         <description><![CDATA[　君たちの中にも、小学校の時以来、読書感想文の宿題に辟易してきた人は多いだろう。実際、「原稿用紙何枚にもわたって書くほどのまとまった内容を、一通り本を読んだだけではなかなか思いつかない。」というのが本音の所なのではないだろうか。
　そこで、あらすじで字数を稼いで、文末に一言感想を付け加えることでお茶を濁したり、幼稚な作文だと自分自身いやになりながらも、本文の内容にしたがって、その場その場の取りとめのない感想を連ねていくことで責任を果たしたりすることが多くなってしまうことにもなる（ｐ21参照）。
　だが本来、人は誰でも、本を読んですぐに一つのまとまった感想を思い浮かべることができるわけではない。本を読んでいる最中は、君たちと同じように、断片的なとりとめのない感想を抱いているだけであることの方が、むしろ普通なのである。
　だから、読書感想文を書くのは、誰にとっても苦しいことに違いない。だが、読んだ直後のこのとりとめのない感じを、どうやったら整理して、自分の感想としてまとめて伝えることができるのかということを、本気で考え、文章を書く努力をすれば、それに見合うだけの価値は十分にある（ｐ5参照）。
　本には、それぞれ人の生き方とでもいうべきものが反映されているものである。君たちは本を読む中で、その本がとらえている問題について真っ正面から取り組み、それを自分の問題として考えてみよう（ｐ54、ｐ59参照）。そういう過程の中で、自分が何を考えたかを読者に伝える努力をするのである。
　小説の場合は、登場人物の生き方が問題になってくるだろう。その場合、自分が共感できないものについて書いてみても奥行きのある話にはならない。ある程度客観的に突き放してとらえたとしても、最後の最後は、「好きで好きでたまらない」というところがないといい感想文にはならない。
　評論文の場合は、往々にして物事の解説だけに終わってしまいがちだ。しかしこの場合にも、自分の将来の生き方と結びつけて、自分はどう生きていきたいのかということを考えながら感想文を書くべきである。
　いずれにしても読書感想文は本の案内文ではないのだから、実際に文章を書く時には、「本の紹介をしよう」などという気持ちは一切捨てて、君たちがその本に触れることでどう自分の生き方を見つめ、変えていったのかということについて説明しようという意識を持つことが大切である。
　小論文・作文のための練習という面から読書感想文をとらえると、就職のためなら、小説にしろ評論にしろ、優れた感想文を書ければそれだけで対策は十分である。進学のためなら、評論についての感想を書くことをお勧めする。以前にも述べたとおり、自分の将来の進路に関係する本を、一冊や二冊は最低でも自分のために読んでおくべきである。そこで読んだ本を参考にして、感想文を書くことで将来の自分の道についてどのように考えるかを整理するのである。それがそのまま小論文・作文対策になると同時に、自分の気持ちを高め、将来の自分の進路についての展望を明確にすることにもなる（ｐ14参照）。
　夏休みは本を読み考えをまとめる絶好の時である。読書感想文に意欲的に取り組み、自分を高める一つの契機にしよう。それで賞でももらえれば、一石二鳥だろう。

<div class="youten"><strong>読書感想文</strong>
　本を読むことで、自分がどう生き方を見つめ、変えていったかということについて書く。</div>]]></description>
         <link>https://www.syouron.com/nekoron/2007/06/post_93.php</link>
         <guid>https://www.syouron.com/nekoron/2007/06/post_93.php</guid>
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">0200-付録１　読書感想文について</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 30 Jun 2007 05:48:20 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>読書感想文を書こう</title>
         <description><![CDATA[　君たちの中にも、小学校の時以来、読書感想文の宿題に辟易してきた人は多いだろう。実際、「原稿用紙何枚にもわたって書くほどのまとまった内容を、一通り本を読んだだけではなかなか思いつかない。」というのが本音の所なのではないだろうか。
　そこで、あらすじで字数を稼いで、文末に一言感想を付け加えることでお茶を濁したり、幼稚な作文だと自分自身いやになりながらも、本文の内容にしたがって、その場その場の取りとめのない感想を連ねていくことで責任を果たしたりすることが多くなってしまうことにもなる（ｐ21参照）。
　だが本来、人は誰でも、本を読んですぐに一つのまとまった感想を思い浮かべることができるわけではない。本を読んでいる最中は、君たちと同じように、断片的なとりとめのない感想を抱いているだけであることの方が、むしろ普通なのである。
　だから、読書感想文を書くのは、誰にとっても苦しいことに違いない。だが、読んだ直後のこのとりとめのない感じを、どうやったら整理して、自分の感想としてまとめて伝えることができるのかということを、本気で考え、文章を書く努力をすれば、それに見合うだけの価値は十分にある（ｐ5参照）。
　本には、それぞれ人の生き方とでもいうべきものが反映されているものである。君たちは本を読む中で、その本がとらえている問題について真っ正面から取り組み、それを自分の問題として考えてみよう（ｐ54、ｐ59参照）。そういう過程の中で、自分が何を考えたかを読者に伝える努力をするのである。
　小説の場合は、登場人物の生き方が問題になってくるだろう。その場合、自分が共感できないものについて書いてみても奥行きのある話にはならない。ある程度客観的に突き放してとらえたとしても、最後の最後は、「好きで好きでたまらない」というところがないといい感想文にはならない。
　評論文の場合は、往々にして物事の解説だけに終わってしまいがちだ。しかしこの場合にも、自分の将来の生き方と結びつけて、自分はどう生きていきたいのかということを考えながら感想文を書くべきである。
　いずれにしても読書感想文は本の案内文ではないのだから、実際に文章を書く時には、「本の紹介をしよう」などという気持ちは一切捨てて、君たちがその本に触れることでどう自分の生き方を見つめ、変えていったのかということについて説明しようという意識を持つことが大切である。
　小論文・作文のための練習という面から読書感想文をとらえると、就職のためなら、小説にしろ評論にしろ、優れた感想文を書ければそれだけで対策は十分である。進学のためなら、評論についての感想を書くことをお勧めする。以前にも述べたとおり、自分の将来の進路に関係する本を、一冊や二冊は最低でも自分のために読んでおくべきである。そこで読んだ本を参考にして、感想文を書くことで将来の自分の道についてどのように考えるかを整理するのである。それがそのまま小論文・作文対策になると同時に、自分の気持ちを高め、将来の自分の進路についての展望を明確にすることにもなる（ｐ14参照）。
　夏休みは本を読み考えをまとめる絶好の時である。読書感想文に意欲的に取り組み、自分を高める一つの契機にしよう。それで賞でももらえれば、一石二鳥だろう。

<div class="youten"><strong>読書感想文</strong>
　本を読むことで、自分がどう生き方を見つめ、変えていったかということについて書く。</div>]]></description>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">0200-付録１　読書感想文について</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 30 Jun 2007 05:48:20 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>読書感想文の実例　　　小説</title>
         <description><![CDATA[<div class="title-left2-dai">　<strong>『ライ麦畑でつかまえて』を読んで</strong></div><div class="reibun">　誰だってライ麦畑でつかまえてほしいに違いない。<strike>　　　</strike>そうしたら 、もしつかまえてもらったら、どんなに幸せだろう。どんなに素直になれるかしれない。「ライ麦畑でつかまえて」というホールデンの叫ぶような願いが私の心にストレートに響いてくる。もちろん彼は決して誰にもそんなことを言ったりしない。一人で苦しみ、そして傷ついたあげくに、他人は分かってくれない、と固く心を閉ざしてしまう。そんなことではいつまでたっても大人になれないのではないか。私のホールデンヘの不安は、まさに自分自身に対する問いかけとなった。自分と正面から向き合うことで、私は改めて自分の世間知らずに気づかされた。<br />
　精神分裂症として病院で静養しながら、彼は旅で経験した様々な出来事を語ってくれた。彼は割と名の通った高校、ペンシーを退学になり、家までただ一人で帰っていく。家族の人はまだ誰も退学のことを知らないので、帰途彼は自由気ままに振る舞い、その旅を人間関係、学校生活、あらゆる現実からの逃避そのものにしていった。いつ身を滅ぼしてしまうかしれない、そんなスリルにひきつけられて、私の心はぴったり彼についていった。　旅の途中、出会う人ごとにホールデンと私は一喜一憂したのだが、私は次第に彼を憎むようになっていた。そんなことをしてはいけない、言ってはいけない、と批判的になった。人間不信、支離滅裂な言動、不作法、計画性のなさ、頑固なところ、異常な潔癖さ、自己顕示欲、それらすべてが許せなくて、私は反発せずにはいられなくなった。<br />
　それなのにホールデンヘの嫌悪を感じる一方で、同時に私は彼に共鳴していた。大人でも子どもでもない今を生きる彼と私が重なり合う。いつまでもこのままではいられない、と分かってはいる。けれど出てくるのは誰かに自分を助けてほしいという子どもじみた思いばかり。他人を辛らつな言葉で非難するくせに、自分には甘い。人間不信でありながらつい人に多くを期待する。<br />
　私にとってホールデンのイメージは、「時」に逆らおうとする聞きわけのない子どものままだ。彼はまるで実際に、ライ麦畑で耳を塞ぎ、膝を抱え、誰かを待っているようだ。「隠れんぼ」で見つけてもらえなかった最後の一人。彼は畑の真ん中で心細さを感じるだろう。さわさわと吹く風にさえおびえるかもしれない。友人、思い出の恋人、旅で出会った人々、兄、教師、そして母もホールデンのもとまでたどり着けない。人をよせつけないのは何より彼の閉ざされた心なのだ。、自分には彼らが必要だ、と彼は認めなければならない。その素直さだけが、広いライ麦畑での道しるべになるだろう。<br />
　ホールデンは、彼自身が嫌悪し、けれど好きでもあった人々のことを旅が終わった後で、「いまここにいないのが寂しい。」「なつかしい。」と語った。彼のこの言葉には、他人の存在の大切さを認め始めるきざしがあるように思う。「ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたい。」と、愛妹フィービーに語る彼にも素直さが感じられた。<br />
　しかし、どんなにホールデンがライ麦畑でつかまえる人になりたくても、残念ながら今の彼にその役はとうていつとまらない。彼の愛はたいへん狭い。子どもに対しても、彼は純真さだけを崇拝する偏愛的傾向がある。当然、彼の腕をすりぬける子どもも現れるだろう。出会うすべての人を受け止めてあげるためにも、愛は広がっていかなければならない。彼は大人が作り上げた虚構の世界を疑いのこもった眼差しで鋭く見つめ、うわべだけの社交辞令を馬鹿にする。そして心の裏を読んでは、すぐにさめてしまう。他人を受け止めるには彼のそんなところが幼すぎる。<br />
　だが、彼を批判してばかりもいられない。ホールデンと同様、「ライ麦畑でつかまえて」と私も確かに願っている。そう思う気持ちが強すぎて、私は齢に合わないくだらない醜態をさらしてはいないだろうか。現実から目をそむけてはいなかったか。実際私は一人では何もできない。絶えず人に頼ってきた。そうして自立しないまま、もう高校を卒業しようとしている。時間は知らない内に過ぎていた。臆病なばかりに耳を塞ぎ、自分の世界に甘んじて、高校生活が終わるのはくやしい。ライ麦畑<strike>　　　</strike>その限りない出会いの場所で、私は包容力のある豊かな心の人間になりたい。<br />
　矛盾だらけの世の中に対するホールデンの不信感もよくわかる。彼ほど繊細な精神の持ち主には、世間というのは本当に住みにくい所だろう。けれど、彼の指摘する一面だけが大人の世界ではないはずだ。大人へと成長していく間に私は様ざまな挫折をするだろうが、それも自分次第だと信じたい。ライ麦畑で誰かをつかまえることができた時、その時こそ自立、精神的な一人歩きを始めることができるのだと思う。それも理想の大人として。<br />
<div align="right">Ｊ・Ｄ・サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』　　　　　<br />
（白水社）　　</div></div>]]></description>
         <link>https://www.syouron.com/nekoron/2007/06/post_94.php</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">0200-付録１　読書感想文について</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 30 Jun 2007 06:19:27 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>読書感想文の実例　　　小説</title>
         <description><![CDATA[<div class="title-left2-dai">　<strong>『ライ麦畑でつかまえて』を読んで</strong></div><div class="reibun">　誰だってライ麦畑でつかまえてほしいに違いない。<strike>　　　</strike>そうしたら 、もしつかまえてもらったら、どんなに幸せだろう。どんなに素直になれるかしれない。「ライ麦畑でつかまえて」というホールデンの叫ぶような願いが私の心にストレートに響いてくる。もちろん彼は決して誰にもそんなことを言ったりしない。一人で苦しみ、そして傷ついたあげくに、他人は分かってくれない、と固く心を閉ざしてしまう。そんなことではいつまでたっても大人になれないのではないか。私のホールデンヘの不安は、まさに自分自身に対する問いかけとなった。自分と正面から向き合うことで、私は改めて自分の世間知らずに気づかされた。<br />
　精神分裂症として病院で静養しながら、彼は旅で経験した様々な出来事を語ってくれた。彼は割と名の通った高校、ペンシーを退学になり、家までただ一人で帰っていく。家族の人はまだ誰も退学のことを知らないので、帰途彼は自由気ままに振る舞い、その旅を人間関係、学校生活、あらゆる現実からの逃避そのものにしていった。いつ身を滅ぼしてしまうかしれない、そんなスリルにひきつけられて、私の心はぴったり彼についていった。　旅の途中、出会う人ごとにホールデンと私は一喜一憂したのだが、私は次第に彼を憎むようになっていた。そんなことをしてはいけない、言ってはいけない、と批判的になった。人間不信、支離滅裂な言動、不作法、計画性のなさ、頑固なところ、異常な潔癖さ、自己顕示欲、それらすべてが許せなくて、私は反発せずにはいられなくなった。<br />
　それなのにホールデンヘの嫌悪を感じる一方で、同時に私は彼に共鳴していた。大人でも子どもでもない今を生きる彼と私が重なり合う。いつまでもこのままではいられない、と分かってはいる。けれど出てくるのは誰かに自分を助けてほしいという子どもじみた思いばかり。他人を辛らつな言葉で非難するくせに、自分には甘い。人間不信でありながらつい人に多くを期待する。<br />
　私にとってホールデンのイメージは、「時」に逆らおうとする聞きわけのない子どものままだ。彼はまるで実際に、ライ麦畑で耳を塞ぎ、膝を抱え、誰かを待っているようだ。「隠れんぼ」で見つけてもらえなかった最後の一人。彼は畑の真ん中で心細さを感じるだろう。さわさわと吹く風にさえおびえるかもしれない。友人、思い出の恋人、旅で出会った人々、兄、教師、そして母もホールデンのもとまでたどり着けない。人をよせつけないのは何より彼の閉ざされた心なのだ。、自分には彼らが必要だ、と彼は認めなければならない。その素直さだけが、広いライ麦畑での道しるべになるだろう。<br />
　ホールデンは、彼自身が嫌悪し、けれど好きでもあった人々のことを旅が終わった後で、「いまここにいないのが寂しい。」「なつかしい。」と語った。彼のこの言葉には、他人の存在の大切さを認め始めるきざしがあるように思う。「ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたい。」と、愛妹フィービーに語る彼にも素直さが感じられた。<br />
　しかし、どんなにホールデンがライ麦畑でつかまえる人になりたくても、残念ながら今の彼にその役はとうていつとまらない。彼の愛はたいへん狭い。子どもに対しても、彼は純真さだけを崇拝する偏愛的傾向がある。当然、彼の腕をすりぬける子どもも現れるだろう。出会うすべての人を受け止めてあげるためにも、愛は広がっていかなければならない。彼は大人が作り上げた虚構の世界を疑いのこもった眼差しで鋭く見つめ、うわべだけの社交辞令を馬鹿にする。そして心の裏を読んでは、すぐにさめてしまう。他人を受け止めるには彼のそんなところが幼すぎる。<br />
　だが、彼を批判してばかりもいられない。ホールデンと同様、「ライ麦畑でつかまえて」と私も確かに願っている。そう思う気持ちが強すぎて、私は齢に合わないくだらない醜態をさらしてはいないだろうか。現実から目をそむけてはいなかったか。実際私は一人では何もできない。絶えず人に頼ってきた。そうして自立しないまま、もう高校を卒業しようとしている。時間は知らない内に過ぎていた。臆病なばかりに耳を塞ぎ、自分の世界に甘んじて、高校生活が終わるのはくやしい。ライ麦畑<strike>　　　</strike>その限りない出会いの場所で、私は包容力のある豊かな心の人間になりたい。<br />
　矛盾だらけの世の中に対するホールデンの不信感もよくわかる。彼ほど繊細な精神の持ち主には、世間というのは本当に住みにくい所だろう。けれど、彼の指摘する一面だけが大人の世界ではないはずだ。大人へと成長していく間に私は様ざまな挫折をするだろうが、それも自分次第だと信じたい。ライ麦畑で誰かをつかまえることができた時、その時こそ自立、精神的な一人歩きを始めることができるのだと思う。それも理想の大人として。<br />
<div align="right">Ｊ・Ｄ・サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』　　　　　<br />
（白水社）　　</div></div>]]></description>
         <link>https://www.syouron.com/nekoron/2007/06/post_94.php</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">0200-付録１　読書感想文について</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 30 Jun 2007 06:19:27 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>読書感想文の実例　　　評論</title>
         <description><![CDATA[<div class="title-left2-dai"><strong>『北海道の夜明け』を読んで</strong></div><div class="reibun">　「これが本当に人間のすることか。」これが、この本を読んで私が最初に思ったことだった。この本は、北海道北見市にある常紋トンネルを舞台に、そこで働かされた?タコ?たちの話をありのままに書いたものである。<br />
　「タコ労働者」というのは主に囚人から成っていて、彼らは私たちには想像もつかない残酷な扱いを受けていた。朝は三時ごろから起こされ、夜中の十一・二時ごろまで働かされる。食事は一日二回で、わかめ・昆布・いもなど粗末なもので、ゆっくり座って食べることも許されない。労働も厳しく、一週間働くと脱走する体力もなくなるほどである。病気をしても医者にも連れて行ってもらえず、労働に耐えられないと思うと、息をしていても穴の中にゴミを捨てるかのようにほうり捨てられる。このように待遇などのすべての面で最低の取り扱いをされていたのである。<br />
　どうして、こんな残酷なことが同じ人間でありながらできるのだろうか。時の政府は「囚人たちはもともと乱暴な悪者だから、労働が苦しくて死のうとも、悲しむ者はない。それどころか、死ねば監獄の費用が少なくてすむ。それに賃金も普通の工夫の三分の一だから安くてすむ。これこそ一石二鳥のやり方である。」と報告している。このような政府の方針のもとで死んでいった、いや殺されたタコ労働者は何万人にも上ったという。いくら過ちを犯したといっても、同じ人間である。こんな虫けら同様の扱いが許されるのだろうか。そもそも刑務所とは、囚人が罪を悟って、再び社会に復帰する準備をする所ではないのか......。<br />
　また、このように人権を無視した扱いをされたタコ労働者は囚人だけではなかった。何の罪もない人々まで、うまい口車に乗せられて生き地獄へ連れて行かれたのである。「仕事も十分ある。飯も腹いっぱい食える。給料もいい。」働き口のない人々は勿論、大学生までがこの一言を信じて、タコ労働者になっていったのである。彼らは鎖の代わりに暴力とリンチでつながれ、逃げ出すこともできない。酷使と虐待に耐えかねて、監視のすきをねらって逃げようとでもしようものなら、半死するまでスコップでたたかれ、みせしめに、生きたまま土中に埋められたのである。が、逃亡しなかったからといって、生命の維持が約束されていたわけではなかった。一九四五年から四六年の一年間に、分かっているだけで実に百五人のタコ労働者が死んでいる。そのうち、六十六パーセントが栄養失調などで死んでいる。このことからも、彼らへの待遇が当時どんなものであったかを十分想像することができる。<br />
　以上述べたタコ労働者の様子は、今から四十年以上も前のことである。だから、今さらそんなことを問題にしてもしかたがないと思う人がいるかもしれない。しかし、私は違うと思う。タコ労働者と同じように、人権無視の状況下で働かされている労働者たちが現在もたくさんいるからだ。<br />
　私たちは文明の恩恵を当然のこととして享受しながら生きている。新幹線や高速道路が建設され、ダムが完成されるために、今も全国各地で多くの人々が犠牲になっていることを忘れてはならない。六年前になるが、北炭夕張炭鉱でガスの突出事故があった。爆発事故が起こると火を消して石炭を守るため、生存者がいても坑口に蓋をしたというのだ。また、同年に原子力発電所で?冷却水?もれ事故を三カ月も隠すという事件があったが、被爆者があったということについての報道は一切されていない。危険な仕事は下請け労働者に任せてしまい、彼らが被爆し、生命の危険にさらされることについては全く無関心である。「人間の生命は地球より重い」などと言われているけれども、営利目的の追求が最優先され、人間を人間として扱わない、人権無視の下請制度は今も昔も変わっていない。この世から「人間を差別する心」が消え、みんなが「人命を尊ぶ心」を持たない限り、この人権無視の風潮は続くだろう。<br />
　現代に生きる私たちが、今、誰にも悲しまれ、顧みられることもなく、虫けら同様に捨てられた現代文明社会の犠牲者たちに対してできることは何であろうか。それは、彼らの骨を掘りおこし、供養をすることではないか。それが、彼らに対するせめてもの償いだと思う。しかし、その犠牲者たちを掘りおこすということは、単に遺骨を発掘するということだけではない。タコ部屋を黙認してきた人々の「人間を差別する心」を掘り返すことでなければならない。この「人間を差別する心」をさらけ出すことは、たいへん勇気のいることである。だが、そうしてはじめて、現代社会に埋ずもれた犠牲者たちの痛み、苦しみが分かるのではないか。我々はそのことによって、人間を差別することを許さない、人権を尊ぶ人間として成長していかなければならないと思う。<br />
<div align="right">小池喜孝『北海道の夜明け』(国土社)　　　</div></div>
<div align="inyou">※北炭夕張炭坑の事故は一九八一年のことである。九十八人の犠牲者が出た。</div>]]></description>
         <link>https://www.syouron.com/nekoron/2007/06/post_95.php</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">0200-付録１　読書感想文について</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 30 Jun 2007 06:33:19 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>読書感想文の実例　　　評論　</title>
         <description><![CDATA[<div class="title-left2-dai"><strong>『北海道の夜明け』を読んで</strong></div><div class="reibun">　「これが本当に人間のすることか。」これが、この本を読んで私が最初に思ったことだった。この本は、北海道北見市にある常紋トンネルを舞台に、そこで働かされた?タコ?たちの話をありのままに書いたものである。<br />
　「タコ労働者」というのは主に囚人から成っていて、彼らは私たちには想像もつかない残酷な扱いを受けていた。朝は三時ごろから起こされ、夜中の十一・二時ごろまで働かされる。食事は一日二回で、わかめ・昆布・いもなど粗末なもので、ゆっくり座って食べることも許されない。労働も厳しく、一週間働くと脱走する体力もなくなるほどである。病気をしても医者にも連れて行ってもらえず、労働に耐えられないと思うと、息をしていても穴の中にゴミを捨てるかのようにほうり捨てられる。このように待遇などのすべての面で最低の取り扱いをされていたのである。<br />
　どうして、こんな残酷なことが同じ人間でありながらできるのだろうか。時の政府は「囚人たちはもともと乱暴な悪者だから、労働が苦しくて死のうとも、悲しむ者はない。それどころか、死ねば監獄の費用が少なくてすむ。それに賃金も普通の工夫の三分の一だから安くてすむ。これこそ一石二鳥のやり方である。」と報告している。このような政府の方針のもとで死んでいった、いや殺されたタコ労働者は何万人にも上ったという。いくら過ちを犯したといっても、同じ人間である。こんな虫けら同様の扱いが許されるのだろうか。そもそも刑務所とは、囚人が罪を悟って、再び社会に復帰する準備をする所ではないのか......。<br />
　また、このように人権を無視した扱いをされたタコ労働者は囚人だけではなかった。何の罪もない人々まで、うまい口車に乗せられて生き地獄へ連れて行かれたのである。「仕事も十分ある。飯も腹いっぱい食える。給料もいい。」働き口のない人々は勿論、大学生までがこの一言を信じて、タコ労働者になっていったのである。彼らは鎖の代わりに暴力とリンチでつながれ、逃げ出すこともできない。酷使と虐待に耐えかねて、監視のすきをねらって逃げようとでもしようものなら、半死するまでスコップでたたかれ、みせしめに、生きたまま土中に埋められたのである。が、逃亡しなかったからといって、生命の維持が約束されていたわけではなかった。一九四五年から四六年の一年間に、分かっているだけで実に百五人のタコ労働者が死んでいる。そのうち、六十六パーセントが栄養失調などで死んでいる。このことからも、彼らへの待遇が当時どんなものであったかを十分想像することができる。<br />
　以上述べたタコ労働者の様子は、今から四十年以上も前のことである。だから、今さらそんなことを問題にしてもしかたがないと思う人がいるかもしれない。しかし、私は違うと思う。タコ労働者と同じように、人権無視の状況下で働かされている労働者たちが現在もたくさんいるからだ。<br />
　私たちは文明の恩恵を当然のこととして享受しながら生きている。新幹線や高速道路が建設され、ダムが完成されるために、今も全国各地で多くの人々が犠牲になっていることを忘れてはならない。六年前になるが、北炭夕張炭鉱でガスの突出事故があった。爆発事故が起こると火を消して石炭を守るため、生存者がいても坑口に蓋をしたというのだ。また、同年に原子力発電所で?冷却水?もれ事故を三カ月も隠すという事件があったが、被爆者があったということについての報道は一切されていない。危険な仕事は下請け労働者に任せてしまい、彼らが被爆し、生命の危険にさらされることについては全く無関心である。「人間の生命は地球より重い」などと言われているけれども、営利目的の追求が最優先され、人間を人間として扱わない、人権無視の下請制度は今も昔も変わっていない。この世から「人間を差別する心」が消え、みんなが「人命を尊ぶ心」を持たない限り、この人権無視の風潮は続くだろう。<br />
　現代に生きる私たちが、今、誰にも悲しまれ、顧みられることもなく、虫けら同様に捨てられた現代文明社会の犠牲者たちに対してできることは何であろうか。それは、彼らの骨を掘りおこし、供養をすることではないか。それが、彼らに対するせめてもの償いだと思う。しかし、その犠牲者たちを掘りおこすということは、単に遺骨を発掘するということだけではない。タコ部屋を黙認してきた人々の「人間を差別する心」を掘り返すことでなければならない。この「人間を差別する心」をさらけ出すことは、たいへん勇気のいることである。だが、そうしてはじめて、現代社会に埋ずもれた犠牲者たちの痛み、苦しみが分かるのではないか。我々はそのことによって、人間を差別することを許さない、人権を尊ぶ人間として成長していかなければならないと思う。<br />
<div align="right">小池喜孝『北海道の夜明け』(国土社)　　　</div></div>
<div align="inyou">※北炭夕張炭坑の事故は一九八一年のことである。九十八人の犠牲者が出た。</div>]]></description>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">0200-付録１　読書感想文について</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 30 Jun 2007 06:33:19 +0900</pubDate>
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