〈抽象のハシゴ〉

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〈抽象のハシゴ〉

 言葉は、もののある一面に着目し、それ以外の具体的な諸々(もろもろ)の事象(じしょう)を無視して捨て去ったところに成立する。このことについて簡単に解説しておこう。
 実際にこの世の中にある私「ねこ」という存在は、一瞬として同じものではあり得ない。分子レベルで考えれば、川の流れのように構成要素が入れ替わっているし(分かりやすいところでは、毛や爪が生え替わる。)、そこまで話を細かくしなくても、その時その時で、体のサイズや顔色などが微妙に違い、表情と動作の組み合わせが同じこともない。このような違いをすべて無視して、「ある一人の人間」に着目した言葉が「ねこ」である。
 これをさらに、「男」「人間」「動物」「生物」「存在」と並べてみると、後になるほどそのものの持つ性質の違いをどんどん無視して捨て去っていることが分かるだろう。このように、ものの特定の共通した性質だけに着目して、他の性質を捨て去っていくことを「捨象(しゃしょう)」という。そして、この捨象の度合いが大きくなればなるほど、その言葉は抽象的だということになる。「ねこ」が「存在」にまでなってしまうと、その抽象度の違いは一目瞭然(いちもくりょうぜん)だろう。
 ところでなぜこんな難しい話をしなければならないのかというと、この抽象のハシゴを上がれば上がるほど、その言葉の指し示す範囲が多くなることを分かってほしいからである。
 すなわち、「男は」というときは、「ねこ」だけではなく、その他の男すべてに当てはまることを述べなければならない。それが「人間は」となると、「男」にも「女」にもすべての人間に当てはまることを述べる必要がある。さらに「すべて存在は」になってしまうと、「人間」にも「花」にも「車」にも「石ころ」にも当てはまるようにしなければならないのである。
 たとえば、「情報化社会」について論じるとしよう。君たちはすぐに

情報化=パソコンの普及=インターネット利用者の増加

という図式で説明にかかる。だが、インターネットの利用、パソコンの利用、情報機器の利用となるほど、先の抽象のハシゴは確実に上がるのである。そのことに気がつかないで、インターネットにしか当てはまらないことを、電話やファックス、テレビの利用なども含めて考えなければならない情報化の問題点として論じてしまうから、「これではあまりに一面的にすぎる」という論文になってしまうのである。
 一般に、

抽象のレベルが上がるほど、それが指し示す範囲が広くなる。そのため、その言葉が含む具体的な例を様々に思い浮かべて、自分がいおうとしていることが本当に正しいかどうかを吟味(ぎんみ)してみる必要がある。

 そして、自分の述べたいことと、文章で書こうとしている言い方との抽象のレベルが一致していない時には、もう一度文章の言い方を考え直さなければならない。
 もう一度この項の最初の一文に目を向けてみよう。「言葉は」で始まっている。例については、名詞しかあげていないが、

  • 動詞………「歩く」「動く」
  • 形容詞……「白い」「明るい」
  • 副詞………「そろそろ」「ゆっくり」

など、他の品詞についてもかなりの品詞において「抽象化」が行われていることを筆者は想定している。
 またこういう書き出しで始めた以上、当然、「日本語」だけではなく、「英語」「中国語」「トルコ語」「ラテン語」なども含めたすべての言語に当てはまることをいわなければならない。
 君たちはここのところを読む時、それらの言語全般が含まれることをイメージして、本当かどうかを吟味しながら読んだだろうか。そういう姿勢があるかないかが、きちんと文章を読んだり書いたりできるかどうかということの大きな分かれ道になるのである(p61参照)。

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