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2005年11月19日

商業科の教員でない人間が好き勝手言うぞ

 ここでは商業科の教員でないものが、商業科目で何を教えているのかをほとんど知らないまま好き勝手を言うつもりでいるので、もしおかしいところがあれば批判は甘んじて受けることにする。
 なお、この記事の折りたたんでいない全文を通して見たい場合は、2005年11月のアーカイブを見てください。

起業家教育というけれど

 商業高校に身を置いていると、「商業高校が生き残るためには起業家教育をやらなければならない。」というような声がちらほら聞こえてくる。

 大学進学が一般的になるにつれ、うちの商業高校でも専門学校への進学を含めれば進学する生徒が70パーセントくらいにまでなっている。このような状況の中では、大学進学だけを第一の目的として考えるのならば、普通科への進学が一番であり、実業高校への進学は、「進学系の普通科へ進めないから仕方なくするのだ」ということになってしまうかもしれない。
 そうなると、必要なのは普通科なのだから、勢い「仕方なしに進学するような実業高校などつぶしてしまえ」というような発想になる。そして実際に、実業高校は減らされる傾向が顕著になっている。
 つぶされる方はそうなっては大変だから、生き残りをかけて、商業高校なら商業高校の独自色を出そうとする。そうしてかつて大学で「情報」と名が付けば生徒を確保できるるために、学科コースの名称を「〜情報」とどこでも変えたように、どこの商業高校でも、「うちの学校では起業家教育をやってます」てなもんで、どこぞの社長を連れてきて少し話をさせたり、ほとんど教員におんぶにだっこなのに、「商売を実際にやらせています」といってアピールしてみたりする。本当はそれが「商売のまねごと」にもならないようなものなのにだ。
 だがそんなことで本当に商業高校は生き残れるのだろうか。私はむしろ発想を変えたところに商業高校にしかできないとても魅力的な教育があると思うのだが。

投稿者 Neko Fumio : 01:16 | コメント (0) | トラックバック(0)

商業高校でも「お金」の考え方について教える機会がない

 一般社会人の生活の中で商業活動はかなり大きな位置を占める存在であるのに、「お金」については今の学校生活で学ぶ場がほとんどない。
 高校でも、普通科ではもちろんのことだが、それでは商業高校でそういう機会があるのかというと、おそらくほとんどの場合やはりない。

 商業高校で教えるのは、簿記や商業知識、それにコンピュータといったところで、商業をする上での実務についての知識は教えるが、「お金をどのように考え、お金とどのようにつきあうべきか」といった発想はほとんどの場合やはり教える機会がないような気がする。
 このように、「お金」に対する考え方や、「銭もうけは社会貢献になる」といった教育をしないまま、お金を扱う実務だけを教育してみても、中小企業で就職してからの社員教育をちょっとだけ省ける程度の雇われ社員を大量生産する効果ぐらいしか期待できないのではないだろうか。
 そのようなところからは、いくら少々商売のまねごとをさせてみたり、思いつきでどこかの社長を呼んで来てちょっと話をしてもらったりしてみても、「将来起業をして社長になろう」などという発想を持った若者が育つとはとても思えない。もしそういう若者が育ったとしたら、それは、学校以外の家庭環境か、その他の何らかの特殊な環境のたまものにすぎないのではないだろうか。

投稿者 Neko Fumio : 02:10 | コメント (0) | トラックバック(0)

商業高校では「銭もうけ」について教えたい

 「『銭もうけ』はよいことであり、社会貢献につながるのだという発想を高校で教えろ」というと、「『銭もうけ』は教育となじまない」という反応が必ず返ってくる。
 だが、商業活動を教える商業高校で、商業活動の意義を教えないとしたら、いったい何を教えるのだろう。「お金について語ることは卑しいことだ」といった潜在意識を持つ人間に、商業活動の実務を教えたとして、いったいどれほどの効果が上がるだろうか。

 「商業活動」とは、何らかのサービス(商品)を提供して、それに見合う対価を得る活動のことである。だから、その商業活動を自ら進んで行おうとする人物を育てようと思えば、商業活動が意義のあることであり、その結果得られる「富」は、自らが行った商業活動という社会貢献に対する正当な報酬(ご褒美)であるというように考える発想をぜひとも教えなければならない。
 ところが、われわれ日本人の多くは、「お金について語ることは卑しいことだ」といった潜在意識を持っている。お金を持っているものを、一方で嫉妬しながら、一方では何かやましいことをしてもうけているに違いないと邪推する。
 これは言うまでもなく商人の発想ではない。商業活動をする人たちをさげすみながら、一方で商業活動をした人たちから年貢(税)という形でお金を巻き上げる武士の発想なのだ。
 学校が武士道的な精神論を教え、国民もみんなが気位を高く持ち、あるいは成り上がって士族階級になろうと背のびするなかで、我々多くの日本人が、潜在的にこういう発想を植え込まれてしまったようだ。
 だが、このような発想が主流を占める社会では、役人のように、「お上からどれだけお金をぶんどって自分たちが仕事をするか」という発想か、仕事をしてその分だけ会社からお金をもらおうといような他人任せの発想かしか生まれようがない。
 今の社会で商業活動に自ら志す若者を育てようと本気で考えるのならば、このような根本のところで、商業活動の社会的な意義をしっかりと教え込むことが必要最低の絶対条件なのである。

投稿者 Neko Fumio : 03:10 | コメント (0) | トラックバック(0)

「銭もうけ」=社会貢献

 「『銭もうけ』=社会貢献」という風には必ずしもならないが、「『銭もうけ』=悪である」という発想ではお話にならない。
 実際自分で商売をちょっとでもやってみれば、「人がどれだけお金を払ってくれないか」「銭もうけは難しいか」ということがよく分かる。

 人をだましたり、道徳的でない方法で「銭もうけ」をするのでないかぎり、正当な商行為の中では、物であれサービスであれ、「そのお金に相当する価値がある」と判断した場合だけに人はお金を支払ってくれる。人がお金を支払ってくれるということは、その人が求めるものを手に入れるために、喜んでお金を差し出してくれたのと同じことなのだ。
 だから「どのような立場で人に喜んでもらって、銭もうけをするか」ということを考えている限り、「銭もうけ」は「社会貢献」なのである。そしてこのようにしてお金をたくさん儲ければ、税金という形でも社会に貢献する。


政府の大企業優遇も、経済成長を望む我々の考え方の裏返し

 よく批判の矛先が向けられることに、たとえば不況になると、政府が個人の低所得者の税金をどんどんあげて、大企業を優遇し、ゼネコンなどを使ってダム工事や、建築工事を次々にやろうとするということがある。なるほどそれによって環境が破壊されるなどの悪影響があれば、批判はあながち間違いではない。しかし、それによって多くの金が社会で動き、多くの人の懐を潤すことを期待している多くの人がいることも見落としてはならない。
 社会の中で金が動くことを第一に考えるなら、お金をたくさん持っている金持ちを優遇して、たくさんの事業をさせるに限る。貧乏人に少々金を持たせたところで、ささやかな商品購入に充てるか、さもなければ貯蓄などというものにして、お金の流れを停滞させてしまうかくらいのことで、この面を重視して考えた場合には、どうせたいした効果は期待できない。
 そういう意味では、どこかの政党が数年前にやった、「地域振興券」というような形で、はした金を個人にばらまくというようなのが、金だけ使って経済効果を生まない一番の愚策だ。
 このようにして金持ちを優遇して、その他の庶民に増税をしていこうというような現在の政治の流れが当然のごとくして生まれてくるのである。
 だから、もし我々が相も変わらず、経済成長を望み、所得の増加を望み続けるなら、これらの経済活動は、「社会貢献」という美名の元に行われ続けるに違いない。このような事情を一切無視して、そのような商行為が横行することを批判してみても、全く無意味だ。それは、実は「景気がよくなってほしい」「経済成長をしてほしい」という我々の望みを反映した結果だからだ。
 このように経済活動が、環境破壊や、一般庶民層軽視につながっていくのは、政治家や大企業が悪いばかりではなくて、むしろそのような私たちの経済成長を望み続ける考え方の方にも原因があるのだということをよく考えてみなければならない。
 「社会貢献」も、みんなの望む方向がおかしければ当然おかしな方向に進むのである。


銭儲けの罪悪視はやめるべき

 一部の違法な人たちや、人のためにならないことを顧みない人たちのことを考えて、「銭もうけ」そのものを罪悪視するような考え方は改めなければならない。特にこれから商業高校で学ぼうというような生徒諸君には、是非とも上に挙げたような視点で「銭もうけ」ということを考えてもらいたい。

投稿者 Neko Fumio : 04:10 | コメント (0) | トラックバック(0)

みんな「お金」がほしい

 誰だって「お金」に無関心なものはいない。実際に生活していれば、否が応でもお金のお世話になっているし、お金があれば、多くの物が手にはいるし、なければとても困難な生活をしなければならない。みんなそれを身にしみて分かっているから、ほとんどの人は「お金」に無関心ではありえない。
 問題は、みんなが「自分は『お金』に無関心だ」と思いたがっているということだ。これは先ほどもふれたように、みんなが武士の発想をしたがっているためだ。

金持ち父さん貧乏父さん だが、本当は無関心でないのなら、むしろその事実を素直に認めた方がよいのではないだろうか。
 そして教育現場でも、みんなの生活に深く関わっているお金についてそれをどう考えるのかという見方を教えるべきなのではないだろうか。高校までの教育は、大学教育と違い勉強とともに生活を教える場でもあるのだから、生活にとても大切な「お金」の教育は、絶対に欠かせないものの一つであるはずなのだ。
 わたしは「普通科」高校で勉強したものとして、『金持ち父さん貧乏父さん』を読んで、ずっと閉じていた目を開かれたぐらいの衝撃があった。「人から(国から、会社から)お金をどうやったらもらえるか」というような発想ではなく、お金儲けをしながらそれによって社会貢献をし、自分自身を豊かにしていくという発想は、そのような考え方をしたことがない者にとっては、とても新鮮で魅力的だ。
 一方で人からもらうことだけを考えて、お金に本当は執着があるのに、それを軽視して結局豊かな(経済的にだけではなく精神的にも)生活を送れない「貧乏父さん」の存在は、我々に自分自身を思い知らせてくれ、とても耳の痛い話である。
 もしこのような発想になじんでない人が商業高校や経済学部・商学部の生徒にいるなら、『金持ち父さん貧乏父さん』は必読の書であると私は思う

投稿者 Neko Fumio : 05:10 | コメント (0) | トラックバック(0)

起業家教育

 さてここまで来て、やっと最初の起業家教育の話に戻ってきた。我々は、結局「金儲けは罪悪だ」「立派な大人が本気で語るべきではない」というような雰囲気の中で生活し、「自分でお金を儲けてやろう」という気持ちを育てることのないまま、何の疑問を感じることもなく「人に雇われ、人からお金をもらう生活を当然だと考えて暮らしている。もし本気で起業家を育成する気があるのなら、「この我々が持っている常識は、必ずしも考え方のすべてではない」「別の考え方をすれば、苦しいかもしれないが、もっと別の豊かな展望をもたらしてくれるかもしれない」ということを本気で教える必要がある。

 もちろん、自分で金儲けをする道は、たぶんそれだけでバラ色の道ではないだろう。「自由」は、それを持つことによって非常に魅力的な世界を提供してくれる。しかし反面、自由になれば、人はその自由の中で、何をどうするか自分で全部決めていかなければならない。これは想像以上にとても大変な作業であるから、その自由を放棄して、人に全部決めてもらって、自分はそこからもらう方の道を選ぶのだという人が多くでても全くそれは不思議ではない。
 しかしそちらの道をたとえ選ぶにしても、別の道があることを知ってそれを選ぶのと、知らないでそれを選ぶのとでは、たとえ外見上の選択結果は一緒でも、内容はずいぶんと異なるのではないだろうか。
 商業高校がこの社会で必要なものとして生き残るとすれば、それは以上のような教育をすることができたときではないだろうか。そのような教育を目指すことで、普通科はもちろんのこと、大学の経済学部や商学部ででさえ得ることができない、生きるための視点を与えるというとても重大な使命を担う。そうすれば、この世の中で商業高校はかけがえのない存在になるはずだと私は考えている。
 そしてそうなることができる可能性は、「商業」高校という枠の中にとても魅力的な要素を持って存在しているのではなかろうか。

投稿者 Neko Fumio : 06:13 | コメント (0) | トラックバック(0)

実務だけ教えて事足りる時代は終わった

『学問のすすめ 』の帳合いの付け方

 福沢諭吉の『学問のすすめ』には、「読み書きそろばん」といった実用的な学問ができる人が身分が高く、尊い人となり、そうでない人は身分が低く、卑しいままで甘んじなければならないのだと述べられている。そして彼は商売をする人のために、「帳合いの付け方」を学べと勧める。

 「帳合いの付け方」とは、今で言えば、これは紛れもなく「簿記」のことだ。そして今の商業高校のカリキュラムも、おおよそ福沢諭吉が勧めた線で組み立てられているのだと思う。


現代は自営が当たり前の時代とは職業観が違う


 だが、ここで考えなければならないことは、福沢諭吉の時代には、自分で商売をするということが当たり前だったということだ。自分で商売をする。その時に、自分が読み書きをできなければ、他の人に頼らざるを得ず、その結果、結局商売を他人に依存させて、搾取されてしまう。そこを読み書きそろばんを自分ですることによって、自分の商売を自分で管理して、自立した経営者になろうという発想だったはずだ。
 他人に雇われるにしても、この時代には、「いずれは自分のお店(たな)を持って」というような夢を持っていたのではないだろうか。
 だが現代では、自営の人の割合は、他人に雇われて一生を終わる人よりもはるかに少ない。他人に雇われるにしても、「いずれは自分のお店を持って」というような夢を持って、そのための一つの布石として勤め人になると考えている人など、そうでない人に較べれば一握りのはずだ。


簿記を教えるだけではもはや片手落ちだ

 そのような時代に簿記を教えたとして、それだけでは福沢諭吉の考えるような自立につながるとはとても考えられない。ただ単に、就職した時、会社が再教育をする投資が少なく、便利に使いやすい安上がりの雇われ人を大量生産するだけのことにしかならないのではないだろうか。


財界人に商業高校のあり方を聞く愚


 商業高校の今後のあり方を考える為に、経済界の人に学校に望むことを聞くということはよく行われることだ。だが、経済界の人が学校に望むこととは、極言すれば結局は、自分が手間をかけずに使いやすい安上がりの雇われ人を大量生産してほしいという内容になってしまうのではないだろうか。
 だから、「敬語ぐらいは正確に使え」て、「簿記もでき」て、「ワープロやエクセルの使い方はマスターし」てと好き勝手な要求になるのだと思う。
 本質的な能力を持った人間なら、一応一通りできても応用力の無い人間より、本当は会社にとっても有用なはずだが、財界人は即戦力よりも潜在的能力を持った人間の育成を、本当に高校に望むだろうか。実際に出てきた商業高校に対する要望を見てみると、とてもそのような考え方をしているとは思えない。
 まして、会社で経験を積んで、いずれ自立しようなどと考える人間を、喜んで受け入れる経営者がそれほど多いとはとても私には考えられないのである。


高校ではこれから生きていく上での基本的な視点を身につけさせたい

 例えば特定の一企業の作ったワープロの諸機能を全て覚えたとして、それが、その人のこれから生きていく上での蓄積にどれほどなるだろうか。
 ある程度、ワープロにはこんな機能とこんな機能があるということを知っていれば、使うワープロが変わっても、マニュアルを自分で開いて勉強していけばいいのではないだろうか。
 むしろ生きる知恵とは、そのような自分で考えていく上で土台となる基礎的な考え方や自分で調べて問題を解決していこうとする姿勢を身につけていくことではないだろうか。
 エクセルは便利で、ちょっとしたことなら何でもできる。だが、これで何でもすることを教えるより、たとえばデータベースをエクセルで扱おうとするのは、やっぱり本来のやりかたからいえば邪道で、同じデータをあちこちコピーしまくって何でも好き勝手できる分、処理をする上でリレーショナルデータベースソフトとは違って、手違いによる誤りが起きやすいから「いやだなあ」というような感覚を持てる人間を育てることの方が大切なのではないか。
 今ではうちの学校でも、とうとう数年前から情報管理科でも、プログラム言語を全く教えなくなったそうだ。確かに、今時cobolができても、実質的には何の役にも立たないだろう。
 だが、何の言語でもよいから、プログラム言語の初歩を身につけておくことは、コンピュータがどのようにして動くのかという、おあつらえのソフトにいくら精通しても身に付くことのない基本的な考え方を提供してくれる。さらに、一つの言語を身につけておけば、先のワープロの例ではないが、他言語を身につけようとする時には必ず指針になってくれる。
 だからこれを身につけておくことは、量的な違いではなく、質的に全く違う人間になることなのである。
 逆に、ホームページをつくるために少々HTMLができても、HTMLなど所詮ワープロを難しくしたものにすぎないのだから、ワープロと、言語の基本的な考え方、ホームページサーバーの基本的な考え方を知ってさえいれば、全く習っていなくても自学自習するのはさほど難しいことではない。
 学校での授業時間など、社会に出るなどして自学自習する時間に較べればはるかにかぎられているのだから、教えなければ学びにくいような、本質的な内容だけに限定しなければ、かける時間がもったいないことこの上ない。
 何にしてもそうだが、今の教育は、流行を追いかけ、上っ面のできることを喜んで、本質的な質の違いを大切にしない。そのような時代にあっても、やっぱり大切なことは、それに流されないで、旧態依然だと言われても本質的な教育を目指すことだ。
 ただ、「旧態依然」は、その取り扱う内容の話であって、それを教える人間が、なぜその旧態依然なことを教えるのかという問題意識を持っていなければ、「旧態依然なくそ教育」になりかねないという危険性もはらんでいる。
 例えば英語の文法教育などもその類だろうと思う。しかし、これについては、また別のところでまた書くことにする。


自分で商売をしたいと思わせる教育が必要

 「雇われること」が普通になってしまった社会にあって、商業高校がしなければならない基本的な教育とは、「雇われる生き方」だけではなく、「雇う生き方」もあるという選択肢があることを教えることだ。
 「起業家教育」といっても、高校でできることは、実際のノウハウに関しては所詮ままごとにすぎない。そこで、なにか店をやらせて「実際に生徒に経営のまねごとをさせてます」と言ってみても、たとえ商店街で本当に客相手に商売をさせてみても、そのことが本質的な教育につながるかといえば、それはとても疑わしい。
 だが、その中途半端なまねごとの中でも、もし生徒が「雇われるだけでなく、自分で全部やる生き方もあるな」「大変かも知れないが自分でやってみたい」ともし考えるようになるなら、それはとても意義があることだ。
 大学に行くにせよ、会社に入るにせよ、高校を出て、実務的なことを学ぶ(学ばなければならない)場所はどこにでもある。だが、「雇われるか」「雇うか」といった根本的な生き方の違いを考えさせてくれる場所は、本当に数えるほどしかない。もし商業高校がその数えるほどしかない場所の一つになることができたとしたら、これほどかけがえのない場所はないのではないだろうか。


高校は中途半端だが、中途半端な中でこそできることもある

 「起業家教育」だ、「商業実践」だといった宣伝文句は、それ自体は魅力的に響くかも知れないが、内実の中身があるかどうかは知れたものではない。
 高校は中途半端な場所だ。商業高校だといっても、所詮総合的に学ばなければならない「高校」という枠組みの中での取り組みなのだから、大学・企業で学ぶのと同じ土俵で勝負をしていたのでは勝ち目はない。早々にぶっつぶしてより専門的なところに行かせようという発想になってもしかたがないのである。
 だが、そのような中途半端なところだからこそ、まだ生きる方向の定まっていない若者に新しい生き方の視点を示してやることができる魅力もまたあるのではないだろうか。
 やれ、「起業家教育」だ、「商業実践」だといって外見ばかりを追い求めるのではなくて、私は商業高校に、そのようなお金に関わる生きる姿勢を考えさせる場所として、是非生き残ってもらいたいと考えている。

投稿者 Neko Fumio : 07:10 | コメント (0) | トラックバック(0)

高校ではお金・商売に対する原体験を与えたい

高校でのホームステイの意義

 商業教育と話題がはずれるが、少し我慢してつきあっていただきたい。

 高校で一般的にホームステイに行かせるようになってからかなり経つ。私がかつて勤めていた新設の総合選抜普通科高校でも、他校がまだホームステイを始めない頃、希望すれば誰でもホームステイにいけることを売り物にして、それ以前なら周りの高校に行っていた優秀な生徒を集めて、ずいぶんと他校から恨まれたものだ。

高校でホームステイなど高い観光旅行だが

 それはさておき、高校生がホームステイに行ったとして、高校の宣伝効果は抜群だが、親にとってはずいぶん高い観光旅行代だと私はその頃思っていた。大学で英文科にでも行ってホームステイをするのならいざ知らず、高校の1年生が夏休みに2週間ほどホームステイに行くとして、その機会を生かして最大限自分のためになるように有効に使おうなどと考えて、行く前から一生懸命に準備をする生徒など、それほどいたとは思えない。
 もちろんそのためにラジオの基礎英語を毎日聞かせて定期的に小テストをしてみたり、相手の国の様子を調べさせたり、日本の紹介を考えさせたり、教員の側は、できるだけ準備をしながらことを進める。生徒もまじめだから、当然宿題はまじめにやってくる。
 だが、それは与えられた機会を最大限生かすために自分から自発的に課題を見つけて努力するのとは全く質が違う。そのような状態でホームステイに行って、片言の英語をしゃべって、別れるときには涙を流して抱き合いながら別れを惜しむ。本人はもちろんホームステイに行って大満足なわけだが、英語学習という観点から考えると、ホームステイを目標点に据えて猛勉強するわけでもなし、本当に文章にもならないような片言の英語をしゃべって意思疎通をした気になって満足して帰ってきたとして、それがどれだけのものになるだろうか。親にとっては高い観光旅行代だと、冷めた思いで眺めたものだ。


ホームステイは英語文化圏を身近に感じ、近づいていこうとする姿勢を持たせる原体験になる

 このような思いは今でも基本的に変わったわけではないが、私は今は少し違った考え方をするようになった。
 確かに英語学習という点から考えれば、ほとんど効果が無く高い観光旅行代だ。この点大学に行って自発的にホームステイをするのとは訳が違う。
 しかし、このようにしてホームステイに行った生徒たちの中に、国際系(高校のコース選択で)に行って、他の教科は偏差値で50ほどなのに、英語だけは70もとるような生徒が何人も出るのである。全教科が70あれば、東大にでも行ける。しかし、彼らは英語だけは死にものぐるいでがんばっていい成績になるのである。(もちろん全員が全員英語だけというのではないが)
 こうなる理由は、もちろんホームステイ先で英語を勉強したからではない。ホームステイに行くことによって、英語圏の国を身近に感じ、とにかく自分をそこに近づけるために英語だけは努力しようとするからだ。そして同じような思いで努力しているクラスメイトが周りにいるからだ。
 つまり、高校での短期ホームステイは、英語学習という点からすれば、ほとんど実用にはならないかもしれないが、英語圏の文化を身近に感じ、それに近づいていこうとする姿勢を持たせる原体験になっているわけだ。


自分を制約する考え方を解放する原体験

 私が高校生の頃には、ホームステイに自分が行くことなど想像もしなかった。大学に入ってもこれは同じだった。英語を一生懸命勉強しながら、自分が英語を使って自由に外国人とコミュニケーションを図っているところなど想像できなかった。
 ところが、同じ頃の同じ大学でも、英文科の学生は、後から聞いてみると、ホームステイに行った人がかなりいるようだ。
 我々は自分を取り巻く環境の中で、自分のあり方について、「こんなものだ」と決めつけて、それ以外の生き方の可能性があることに全く気づかないでいることが多い。つまり、何の根拠もなく自分が習慣からなじんだ考え方に制約されて、それ以外の生き方を選ぶことができないような大きな壁を作ってしまっていることが多いのである。
 だからかつての私のように、英語を学びながら、それを使って自分が外国人とコミュニケーションを図っている場面を思い描くことができないというようなことにもなってしまうのである。
 ところが、高校生でのホームステイは、実質的に英語学習の効果はなくても、外国人とコミュニケーションを図る自分を思い描けないという心理的な壁を簡単に打ち破ってしまう。それどころかむしろ、実際には自分は片言の英語でさえ話せないのに、自分が英語を自由に使って外国人と会話している姿すら思い描かせるのである。
 こう考えてみると、なるほど高校生にホームステイなど高い観光旅行もしれないが、自分が無意識のうちに作っている壁を打ち破り、その後の自分の生き方に影響を与え、変えさせてしまう原体験としては、大変な重みを持つ場合もあると考えられるのである。


商業高校での原体験

 さてここで、商業教育の話に戻って、前項までで考えてきたことからも分かるように、現代の我々は普通「自分で商売を切り盛りしていく自分」を思い描けないでいる。自分で商売をするということに関して、知らないうちに大きな壁を作ってしまっていることが多い。
 だから、商業高校で、商売の実務だけを教えたのでは自営業者を育てることなどできないのである。だが、逆にもし、この壁を打ち破って、起業を身近に感じさせ、自らそこに向かっていきたいような気持ちにさせることができるような原体験を与えることができれば、実務を重んじる人からすれば笑われるような教育でも、それは大変な意味を持つ。技術や知識の教育は習ったその内容以上にはならないが、原体験は、習ったその時よりも、その後のその人の人生において大きくふくらんでくるからである。


商業高校での原体験を与えるには

 おそらくはやりの全校を挙げての「〜デパート」といったような販売実習や、一部の生徒による商店街での本当の店づくりなどだけでは、このような体験を与えることは難しいだろう。それはお金に対する根本的な考え方・姿勢が変わらないまま、商売の最終的な責任も負わず、教員におんぶにだっこされながら、商売の根幹に関わるところでないところだけを自由に自分たちで考えたつもりにさせられているだけだからだ。
 だから、ホームステイとは逆に、一見魅力的に聞こえる客寄せ効果のあるこのような方法では、宣伝通りの効能を得ることは難しい。地道ながらでも、やはりお金や商売に対する考え方の根本から教えて、生徒の考え方の質自体を変えていく試みをしていくしか方法はない。


高校での商売を教える困難

金持ち父さん貧乏父さん ただそこで問題になるのは、それを教えるべき立場にある教師自体が、自分で商売をしたこともなく、お金に対する考え方も、「雇われ人」の考え方しかしていない場合が多いということだ。
 これはなかなか致命的だ。公務員は副業が禁じられているが、将来的には、公務に支障を絶対にきたさないという約束である程度副業を認めるなどの措置も必要になってくるのではないだろうか。
 今現在の状況では、地道なことながら、『金持ち父さん貧乏父さん』などを読んで、教師たち自身が、自分に作っている意識の壁をまず努力して打ち破っていくことから始める以外に方法はない。


商売のプロは教育のプロではない

 ただしここで誤解を招かないように、ちょっとだけ違う話を補足しておく。
 教員は商売のプロではない。だからといって、それならどこかの「商売のプロ」を呼んできて、それですぐに良い教育ができるかとなるとそれはやはり違う。
 何事であれ、何年もその道に携わっているプロの仕事をなめてはいけない。他の道のプロだからといってすぐに教育の世界でも通用すると考えるのは、プロの仕事をなめすぎだ。会社で通用する考え方や方法をそのまま持ってきて学校で通用すると考えるのも、考えが足りなさすぎる。
 そういう点では、どこかの会社で業績を上げた人をすぐに校長にしようなどというのも、今時流行だが浅はかにすぎる。せめてそういう人は、3年でも良いから平の教員として教育に携わり、教育のプロになってから校長になってもらいたい。
 自分の仕事に誇りを持っている人なら、素人が自分の上司に突然なって、考え方ややり方を変えろと言えば当然受け入れることなどできないだろう。それと同じことを、いちばんプロ意識を持たなければならない教育委員会が、率先してやろうとするのだから、プロとしてのプライドがなさ過ぎるにもほどがある。

投稿者 Neko Fumio : 08:10 | コメント (0) | トラックバック(0)

文化祭の模擬店を本当に自由競争にして、収入を競わせる

原体験を与える具体的なイベントとしての方法をいくらか考えると

 現在の学校の体制のままで、あまり教員の負担にもならずに実効をあげることのできそうなイベントとしての教育活動を、及ばずながら今現在思い浮かぶ範囲で私なりに考えてみる。
 一つは、文化祭の模擬店を本当に自由競争にして、収入を競わせる。
 もう一つは、アフィリエイトを活用して、生徒に本当の商売をさせる。

 他には、もう既に商業高校などで取り入れられている授業実践だが、株式投資もお金を考えていく上では絶対に避けては通れないことなので、一方で授業でしっかりと株式投資をする上での考え方を教えながら、一方で投資信託会社の株式投資のシュミレーションゲームをやることも、補助的な内容としてはいいかもしれない。


文化祭の模擬店を本当に自由競争にして、収入を競わせる

 我が校でも校内3学年24クラスを4チームにわけて、模擬店の部門も優劣を競わせる。だが、最初に資本の2万円を与えて、それを使い切ろうと、収入を多くだそうと評価には関係がない仕組みになっている。
 チケットの販売も、当日売りはなしで、前日のみである。これはおそらく、当日売りをすることによるリスクを避け、販売計画を立てやすくするためなのだろうが、これでは商売にならない。提供される商品がまずくても買わなければならないし、好評でも当日売りで手に入れることもできない。

 このような状態で優劣を競うといっても、たかだか味と、商品提供の手際ぐらいで、商売の実習に一役買うというまでにはなっていない。


生徒は材料をスーパーから仕入れようとする

 たとえば焼きそばを売るとして、何もこちらから言わなければ、生徒は材料をすべてスーパーから仕入れようとする。私などの商売の素人が考えても、一般的に考えれば小売店で買えば、中間マージンが上乗せされる分仕入れ費が高くなるはずだ。
 だが、生徒は仕入れ価格がどうの、販売価格がどうのとさんざん授業ではやっていても、自分が商売をするという具体的なイメージを持ちながら勉強していないものだから、いつも自分たちが買っているところから材料を買おうとして、よりよいものをより安く手に入れるためにはどうすればよいかなどということは考えない。
 ひどいときには、「スーパーで買うのなら、何件かスーパーを回って、そばの値段を調べてこい」などと責任者に指導すると、「無意味なことを面倒くさいのにたくさんやらされた」と言って怒り出すこともある。


身近なところから身の丈にあった範囲で本当の商売をさせる

 当日売りを多くすれば、商品内容や、価格設定、商品を用意する手際なども当然利益に直結してくるので、純利益を対象に、チームの優劣を評価してもより客観的になるし、問題はない。
 売れ残って大赤字が出るのが心配なら、最初に渡すお金を10万円くらいに大きくし、仕入れ総額をそれ以上にならないように指導すればよい。そこまでの範囲の赤字なら、実習費ということで、どこのチームが赤字を出したからということではなくて全校で負担すればよい。
 そのようにするなら、儲けもすべて学校に還元させればよいから、学校総体としては、収支がかなり安定して、それほど心配するほどの損失にはならなくて済むはずだ。
 もっと商売をした気にさせようとするなら、利益を得点の大きな要素にするだけではなく、そこに関わった生徒に利益を還元しても良い。チームには模擬店の係以外にも、パネルや、ステージなどいろいろな係があるから、模擬店の損失をすべて、チームの生徒に負わしたり、まして模擬店の係の生徒だけに負わしては支障がでる。だから、利益・損益の2分の1とか、10分の1とかをチームの生徒全員に負担させる。
 損益まで負担させるのが難しいという判断になるなら、利益を10分の1還元するだけでも良い。実際に還元額がいくらになるかということではなくて、この際大切なことは、自分たちが利益を出すためにはどうすれば良いのかということを本気で考えさせることだ。実際にいくらかの利益を自分たち自身が手にすれば、それだけで、文化祭に参加するする生徒達の士気もあがろうというものだ。
 もらえるお金がこれっぽっちだからといってしらけてしまわないのが、学生のよいところだ。


本当は一見(いちげん)の客が卸店に行っても安くはならないことが多いのだけれど

 「小売店で買うよりも卸店で買う方が中間マージンがない分安くなる」というのは、基本の理屈だけを簡略化して述べた教科書のような説明で、本当はそう簡単にはいかない。
 そのルートに入っている販売店なら、卸店で買えば小売価格より安く、そのマージンが小売店の利益になる。ところが、一消費者が一見(いちげん)の客として卸業者の所に行っても、実のところは業者保護のため、小売店と同じ値段を取られることが多いのだ。
 だがそんな場合でも、相手が学生だから、「学生さんのためなら」と言って、業者さんもサービスしてくれることが多い。
 たとえば上の焼きそばのようなものだったら、私なら近所の製麺所に麺を頼み、卸売市場に野菜を買いにつれて行く。その他の雑貨は業務用スーパーだ。全員が全員をそんなところに連れて行くわけにはいかないが、責任者だけでも業者との交渉に連れて行くと、色々サービスしてくれたり、これを持って行きなといって半端物をただでくれたり、学生に対する社会の温かい目を感じさせる体験にもなる。


身になる些細な体験の積み重ねしかない

 こんなことなら既に実践している学校もたくさんあるのではないだろうか。生徒に商売の醍醐味と難しさを実感させるには、このような身近に転がっている素材を生かしながら、それら全体で、3年間をかけて自分たちが工夫していかなければならないという雰囲気を作り出していくしかないのである。

投稿者 Neko Fumio : 09:16 | コメント (0) | トラックバック(0)

アフィリエイトを活用して、生徒に本当の商売をさせる

 生徒にリスクを負わせることなく実際に商売をさせる手段として、今の時代最適なものがある。それがアフィリエイトだ。これを利用して、生徒に本当の商売をさせてみてはどうだろうか。
 学校で授業のときだけにしか勉強をしないというのでは、勉強も効率が悪い。これなら生徒が一生懸命にやり出すと、単に学校の勉強としてだけではなく、自分の楽しみとしても、家でも一生懸命してくれるようになる確率も高い。
 むしろそれにのめり込んで、学校の他の勉強が手に付かなくなるというのが、心配といえば心配だ。

アフィリエイトとは

 アフィリエイトとは、もう皆さんご存じのように、商品を紹介して、売り上げがあればいくらかの紹介料を受け取るインターネット上のサービスである。
 これは商品を仕入れるのに資本がいらないし、それに参加するのにも参加料もかからないから、商売を開始するに当たってのリスクがない。それでいて、成功すれば、ゲームではなく本当にお金を稼ぐことができるから、商売の体験として利用しない手はない。


具体的なアフィリエイトプログラムは

 たとえば有名な所では、「バリューコマース」「A8.net」「リンクシェア」などがあるが、これらは年齢制限があって、高校生が参加するというわけにはいかない。
 そこでおすすめなのが、「 楽天アフィリエイト」だ。これはリンクを経由して商品を購入した場合成功報酬が支払われるのは他と同じだが、違うところは、自分が広告した商品でなくても、リンクから楽天に入って、全く違う商品を購入したような場合でも報酬が発生する所だ。だから純粋にいえば、自分が広告した商品だけで成果が上がるわけではないので、店舗経営の勉強に直結するとは言えないかもしれない。
 しかし、他のアフィリエイトをちょっとやってみればすぐに分かるように、素人が片手間にちょっとやったぐらいで何か一でもものを売ってアフィリエイトで稼ぐというのは、想像以上に難しい。実際私は、商売じみたホームページを作るのは嫌いなので、商売のためのアフィリエイトではなく、さりげなくホームページにアフィリエイトを潜ませているだけ(このページのように)だが、一年以上やって、成功報酬を少しでも獲得できたのは、この 楽天アフィリエイトだけだった。
 インターネットをする人は、ネット上の広告にはうんざりしているから、いかにも「ものを紹介して稼がせてもらいますよ」というような顔をしているホームページになど見向きもしないのだ。だからこそ、そこを乗り越えていかに収入を挙げていくのかということを考えさせるだけでも面白い。
 ただこの楽天は、報酬が売り上げの1%と少ないことと、現金ではなくて楽天で使えるポイントとして支払われるという所が制約といえば制約だ。それと売り上げがあったと喜んでいても、一カ月後に確定されてみると、驚くほどのキャンセル率で、思ったほどの稼ぎにはならないことも多い。
 しかしそれでも1年もやっていて売り上げが一つもないより、実際やればやっただけ売り上げもあがるので、やっていて面白い。
 他に似たようなものに、「ビッダーズ」もある。本・DVD・ソフトとなどでは、「amazon」も使える。
 もう一つ使えそうなところでは、 「電脳卸」などもある。ここで商品を仕入れて、といっても掲載された商品を売る登録をして、商品広告を自分のホームページで紹介して売るシステムだ。売りたいような商品には正直言ってなかなか巡り会えないが、ここの商品を売れるようなホームページを本当に作ることができれば、商売をする上での広告のセンスは抜群だ。ここは成功報酬の割合が高い。
 私はそれほど本気でアフィリエイトに取り組んでいるわけではないので、自分が実際にかかわってみたのはこれぐらいだが、他にもいろいろなアフィリエイトのプログラムがあるので調べてみると良い。
 生徒用には、年齢制限がないことと、審査が緩く、大したホームページを持っていなくても提携してくれるプログラムを探すことだ。それで提携している企業が多ければもっと理想的だ。


一つだけ気をつけること

 報酬の成果をそのまま成績に直結させても良さそうなアフィリエイトだが、他の生徒に自分のホームページから購入することを強制するような事態が起こると、大変なことになる。その点によく配慮して、成果も参考資料としながら、ホームページの質も点検して、生徒の活動を評価していかなければならないだろう。



 なお、アフィリエイトについて詳しくは、「アフィリエイトもなかなか難しい」をご覧ください。

投稿者 Neko Fumio : 10:10 | コメント (0) | トラックバック(1)

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