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      <title>ねこの書き書くコラム</title>
      <link>http://www.syouron.com/column/</link>
      <description>小論文・作文だけにとどまらず、文章を書くこと全般について、割合自由な視点からコラムを書いてみます。</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2018</copyright>
      <lastBuildDate>Sat, 02 Sep 2006 06:25:27 +0900</lastBuildDate>
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      <item>
         <title>「樋口」の小論文本の悪口少々</title>
         <description><![CDATA[<div class="title-left">樋口氏の功績は認めるが</div>

　今書店に行くと、小論文関係の本は樋口氏のものばかりが並んでいて(平成18年3月現在手に入る<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/redirect?link_code=ur2&tag=nekosworld-22&camp=247&creative=1211&path=external-search%3Fsearch-type=ss%26index=blended%26keyword=%25E6%25A8%258B%25E5%258F%25A3%25E8%25A3%2595%25E4%25B8%2580">樋口氏の著作</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=nekosworld-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />136点）、他の本はほとんどありません（全小論文・作文関係書籍752点中）。彼の本が最初桐原書店から出たときは、結構目新しく、しかも簡潔に要点をまとめている本だったので、私も教務室の本箱に並べて、持ち歩いたりしたものでした。氏については、「確かに〜しかし〜」の言い方を喧伝（けんでん）して広めた功績は誰しも認めるところでしょう。
　文章の書き方に一つの簡単なパターンを見つけて、誰でもそのパターンにさえ当てはめれば文章を書けるようにしようという氏の試みは、国語の先生方の「そんなもので、本当に味わいのある文章が書けるはずがない」という反感をよそに、ずいぶんと受験生には受け入れられました。それは今日の本屋の小論文コーナーにもよく現れています。


<div class="title-left">樋口氏がもてはやされるのは美しき誤解から</div>

　私も氏の功績を認めるにはやぶさかではないのですが、ただ、今日の氏の小論文本のもてはやされぶりには、少し異常なものを感じます。それは、今日の氏の著述のもてはやされぶりが、実は氏の言っていることをよい方向に誤解したところから起こっているからです。
　４年ほど前、ある生徒が小論文を書いてきました。それは「確かに〜しかし〜」を使って書いた文章でしたが、どこか論理展開のおかしな文章でした。そのときは思いつく限りのことを、「あれを書いたら」とか、「これをこうしたら」とか指導しようとしたのですが、生徒はそれに対して、それは「ここに書いてある」とすべてについてそれぞれ答えるのです。そうして改めて見てみると、確かにそれらしいことが書いてあります。だけれども何か論理の展開の仕方がおかしい。これを考えているから次にはこれが言えるだろうという予測を裏切る文章なのです。
<a href="http://pt.afl.rakuten.co.jp/c/01be4925.cf641fc5/?url=http://item.rakuten.co.jp/book/1196388/" target="_blank"><img src="http://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/book/cabinet/0872/08720056.gif?_ex=128x128" border=0 alt="ホンモノの文章力" align="right"></a>　そのときはなぜ生徒がそのような文章を書いてくるのか、その発想の仕方が分からなかったのですが、翌年『<a href="http://pt.afl.rakuten.co.jp/c/01be4925.cf641fc5/?url=http://item.rakuten.co.jp/book/1196388/" target="_blank">ホンモノの文章力-自分を売り込む技術</a>』（樋口裕一　集英社新書）の中で氏が取り上げている例文を読んで、やっとすべてが分かりました。
　ある程度文章を書く力がある人たち（教員）は、「『確かに』で予想される反論を少しだけ書いて、それを承認できない旨を述べ、次に『しかし』以降で自説を展開する」と書けば、まさか、「確かに」で認めた反論を受け入れられない根拠をあげずにほおっておいたまま、自説を展開しようなどとは考えないはずです。しかし、氏が上掲書で取り上げている例文のかなり多くのものが、そういう風になっています。そして、本に書いてあることだけを頼りとして文章を書く多くの受験生たちもまた、同じような書き方になってしまうのです。その結果、何かそれらしいことが書いてあるのに、発想の流れがおかしい、よく訳の分からない文章になってしまっていたのです。


<div class="title-left">あえて一々どこが悪いか添削して見せないと分かってもらえない不幸</div>

　私の『<a href="http://www.syouron.com/">ねこの小論文・作文講義</a>』の〈主張に向かう部品としての各段落〉は、実は、氏の説明を本当にきちんと守った例文を作って、それがなぜいけないのかをきちんと説明しようという発想で書かれた文章です。これを読んでいただければ、私がなぜここまでこだわるのかを分かっていただけると思います。
　私はもともと理屈っぽい人間なので、文学青年や少女が先生になった方とは違い、「文章の味わい」などなかろうと、「ワンパターン」であろうと、これから様々な分野で活躍することになる若者たちが、自分の主張や考えをきちんと伝えることができる文章を書けるようになるなら、それでよいと思っています。
　しかし、氏の書いた通りの作文の書き方では、形ばかりはあるけれど、「筋道を立てて文章を書く。」という本質的な訓練には少しもなりません。それなのに、多くの先生方は美しき誤解に基づいてこれを推薦し、またいくらかの先生方は、本当にこれでよいと思っている節があります。
　これは、本当に異常な状況ではないでしょうか。少なくともそれを手に、少ない時間を割いて勉強しようとしているまじめな高校生諸君にとっては、これほど不幸なことはありません。
　私の本とて、思い違いや説明が足りないで誤解を招くおそれはあるかも知れませんが、こういう作文界の状況に対して、何らかのお役に立てるのではないかと思っています。　]]></description>
         <link>http://www.syouron.com/column/2006/03/post.php</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">0050-樋口裕一</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 18 Mar 2006 19:55:36 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>樋口の文章観はやっぱりどうも違うんじゃあないかなあ</title>
         <description><![CDATA[<div class="title-left">文章が首尾一貫していない</div>
<br />
<a href="http://pt.afl.rakuten.co.jp/c/01be4925.cf641fc5/?url=http://item.rakuten.co.jp/book/1655222/" target="_blank"><img src="http://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/book/cabinet/7942/79421295.jpg?_ex=128x128" border=0 alt="人の心を動かす文章術"　align="left"></a>　『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/redirect?link_code=ur2&tag=nekosworld-22&camp=247&creative=1211&path=external-search%3Fsearch-type=ss%26index=blended%26keyword=%25E3%2582%25A6%25E3%2582%25B1%25E3%2582%258B%25E3%2583%2596%25E3%2583%25AD%25E3%2582%25B0">ウケるブログ</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=nekosworld-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />』のネタ本になったということを知って、少しは期待しながら、樋口裕一氏の『<a href="http://pt.afl.rakuten.co.jp/c/01be4925.cf641fc5/?url=http://item.rakuten.co.jp/book/1655222/" target="_blank">人の心を動かす文章術</a>』を読んでみました。これは、はじめの方に学生が書いたひどい文章の例を載せて、「私ほど下手な文章を大量に添削した者はいないだろう」などと言っている割には、全く作文能力のない者に文章の書き方を教えるというよりも、ある程度思考力、文章力のある人に向かって、筆者の考える所の作文技術を教える本のようです。<br />
　これを読んで、『<a href="http://pt.afl.rakuten.co.jp/c/01be4925.cf641fc5/?url=http://item.rakuten.co.jp/book/1196388/" target="_blank">ホンモノの文章力</a>』の時ほどには違和感を感じなかったものの、樋口氏の考える良い文章というのは「やっぱり違うんじゃあないかなあ」と思ってしまいました。
　私は出版社から本を出したり、人気になる文章を書いたりするような人間ではないので、そんな高尚な意味で「良い文章の基準が違う」などと言おうという気は毛頭ありません。<br />
　私が文章を読むとき一番大切にしていること、そして読むに足りる文章として最低限これだけは備えていてほしいと考えていることは、文章に伝えたい内容があって、それを伝えるために、その文章を構成する要素すべてが、部品として必要な場所に収まっているということです。<br />
　これは「人の心を動かす」とか動かさないとかいう以前の問題として、文章としての役割を果たすためには、すべての文章が、最低限備えていなければならない条件のはずです。<br />
　ところが、上掲の本に樋口氏がかなり自信を持って載せていると思われる例文は、やっぱりその最低要素すら満たしているかどうかあやしいものなのです。<br /><br />
<div class="title-left">とりあえず添削後の文章を検討</div>

<div class="title-left2-syou"><strong>【修正例</strong>】</div><div class="reibun">

　きれいなものでも、きたなく見えることがある。
　中学生のころ、私は高台の家に住んでいた。町並みが見え、その向こうに小さく海が見えた。夕方になると、私はしばしばうっとりとして夕日に輝く海を見て過ごしたものだ。ところが、ある日のこと、友人の家を訪ねたついでに、足を延ばして家から見える海辺に行ってみた。海岸には大量のゴミが散らばっていた。死んだ魚があちこちに捨てられていて、ハエがたかっていた。海面にもビニールが浮かんでいた。それはそれはきたない都会の海だった。
　その経験をしてから、すでに十年以上がたつ。そのときは、遠くからきれいに見えるものも、近寄ってみるときたないことがあるのだとだけ思っていた。だが、最近感じるのは、きれいとかきたないとかは、見る人によってちがうこともあるのではないかということだ。友人と美術館に絵を見に行ったことがある。誰の絵だったか忘れたが、ニューヨークの街角を描いた油絵だった。私はそれを見て、きたないと思った。下町の汚れた情景だった。ゴミがあり、汚れた壁がある。町に生きる貧しげな人々が描きこまれている。ところが、友人はそれを感動して見ている。どうやら、友人はこの絵をきれいと思っているようだ。友人の様子を見るうちに、絵の表面ばかりを見て、「きたない」と思った自分が恥ずかしくなった。そして、じっくりと絵を見てみた。たしかに深みのある良い絵に見えてきた。都会の裏通りで生きる人々の姿が哀歓をもって描かれている。きれい、きたないは客観的にあるわけではない。人によっても、遠くから見るか近くから見るかによっても、どんな予備知識を持って見るかによっても異なるものなのだ。
　私の心の中にも、きれいな心ときたない心がある。それが人間というものだろう。だが、もっと問題なのは、同じものが、人によって、きれいに思えたり、きたなく思えたりすることなのではなかろうか。人間の感性とはつくづく厄介なものだと、私は思う。（『<a href="http://pt.afl.rakuten.co.jp/c/01be4925.cf641fc5/?url=http://item.rakuten.co.jp/book/1655222/" target="_blank">人の心を動かす文章術</a>』P24）</div><br />

　この文章は、添削の元になった文章が、「構成がよくない。それぞれの段落が有機的に結びついていない。なぜ、その段落でそのようなことを書いているのかがわからない。」ということを踏まえて、「ある程度読むに堪える」ものになるように、樋口氏が書き改めた文章です。
　しかし、この文章で、本当に「段落が有機的に結びついている」と言えるのでしょうか。
　一番分かりやすいところから検討するとして、三段落目の最後の方「きれい、きたないは客観的にあるわけではない」以降最後の部分までの部分に注目してみましょう。
　最後の段落の、「私の心の中にも、きれいな心ときたない心がある。それが人間というものだろう。」ですが、どこからのつながりで、どのような目的のためにここに入れる必要があるでしょうか。思いついたように、「私の心も」と言い出して、「それが人間というものだろう。」というようないかにももっともらしい、しかしとても安直な感想を引き出し、まあ、それは百歩譲って許すとしても、「だが、もっと問題なのは」と、そこで書きかけたことをまたうち捨てて、「同じものが、人によって、きれいに思えたり、きたなく思えたりすることなのではなかろうか。」と一つ前の段落に書いたのと似たような内容を続けます。
　文章を書く場合、「大事なことほど先に書く」というのが大原則です。このような、「だが、もっと問題なのは」と、話の本筋をひっくり返すような文章では、読まされる方がたまりません。


<div class="title-left">この文章で筆者が訴えたいこととは</div>
　ところで、この文章を通して筆者が読者に伝えたいことは何なのでしょうか。考えられることは、<div class="reiji">１．きれい、きたないは客観的にあるわけではない。
２．同じものが、人によって、きれいに思えたり、きたなく思えたりする
３．人間の感性とはつくづく厄介なものだ</div>ぐらいでしょうか。
　１なら、まあ何とか、「そんなものかな」と理解できる範囲でしょうか。細かくいえば、遠くから見たとき綺麗に見えても、近くで見ると汚いことがある」という例が、果たして「きれい、きたないは客観的にあるわけではない」に本当につながるのかは検討を要するところですが、まあ筆者によいように考えれば、そうも考えられないことはないので、ここではそれは問わないことにします。
　ただしそれを全く問題にしなくても、本当にこの１を書きたいのなら、最後の段落はいりません。というよりも、最後の段落は絶対に書いてはいけません。
　２を書きたいのなら、第二段落の例が全く不要になるのではないでしょうか。「同じものが、人によって、きれいに思えたり、きたなく思えたりする」というのは、実は第三段落の例しかふまえていません。
　１と２は、同じことを言い換えているようでいて本当は言っていることが違っているのです。
　３を筆者が言いたかったと思う人はたぶんいないでしょう。これも三段落の例しかふまえていません。
　最後の段落を筆者が書こうとしたのは、おそらく、三段落目までで終わったのでは何となく物足りないような気がして、３のような「気が利いた」と受け取られそうな、しかし実は全く内容のないセリフを締めの言葉に持ってこようとしたためです。
　ところが、どう結びつけようとしても、三段落目からすぐに３に結論を持っていくわけにはいきません。そこでおそらく、書いている本人も論旨がずれていることに気づかないまま言い換えた部分が２なのです。
　これが、前の段落で変な構成になっていると指摘した、四段落目のような文章がこの添削例に付け加わった理由でしょう。


<div class="title-left">「起承転結」のとらえ方も気になるところ</div>
　樋口氏は、氏の考える「起承転結」の構成を説明して、上の文章はそれを当てはめたもので、この文章では、形式段落が、そのそれぞれに対応していると説明しています。（『<a href="http://pt.afl.rakuten.co.jp/c/01be4925.cf641fc5/?url=http://item.rakuten.co.jp/book/1655222/" target="_blank">人の心を動かす文章術</a>』P56）
　ところが、上の説明でも分かるように、第四段落はそこまで書いてきたことの「まとめ」にはなっていません。
　むしろ三段落目に、「きれい、きたないは客観的にあるわけではない。人によっても、遠くから見るか近くから見るかによっても、どんな予備知識を持って見るかによっても異なるものなのだ。」ともってきたところは、さすがだなと私はこの添削例を見て感じています。
　二段落目で述べた例と、三段落目で述べた例は、どこかでそこに共通する部分を見つけていかないと一つの文章としては破綻するほど、話の流れを素直に納得してもらえるとは言い難いものです。その意味で、三段落の例は、「承」の部分を受けながら、話を全く転換しているわけです（転）。そこを何とか「こんな話だよ」とまとめている、すなわち「結」の部分になっているのが、「きれい、きたないは客観的にあるわけではない。」以降の部分です。ですから、起承転結の段落構成の考えからいっても、氏のように三段落目を一つの段落にしては絶対にいけないのです。「きれい、きたないは客観的にあるわけではない。」の部分以降を次の段落にすることで、文章の構成がよりはっきりと段落に反映されることになります。
　結局、この添削例の様な文章で落ちつけようとするなら、「きれい、きたないは客観的にあるわけではない。」の部分以降を次の段落にして、四段落目をばっさり削って、一応の文章の体裁を整えるてみるというようなことになるのでしょう。


<div class="title-left">
添削の問題点については次の項で</div>
　以上説明が大分長くなりましたから、樋口裕一氏の添削の問題点については次の項で検討していくことにしましょう。]]></description>
         <link>http://www.syouron.com/column/2006/05/post_1.php</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">0050-樋口裕一</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 02 May 2006 23:20:47 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>他人の文章を添削するということ　−先生方へ−</title>
         <description><![CDATA[<p>　他人の文章を添削する立場にある人は、国語の教員も含めて、多くの場合「元の筆者の発想をそれほど大切にはしない」という傾向があります。<br />
　添削の対象になる文章には、いろいろな欠点があります。その欠点が気になって、あれこれ添削者が足りない部分を付け加えて、それを消していこうとするのです。<br />
　しかしそれをしてしまうと、添削者が付け加えた部分というのは、元々の筆者の発想にはない部分ですから、元の作者の文章と、添削者の文章とが入り交じった、誰の文章ともいえない何とも奇妙な文章になります。そのような文章に、果たして添削前より価値があるといえるでしょうか。<br />
　文章には、その筆者の思考の方向性や流れというものがあります。これは何を書いているのかよく分からない生徒の文章でも誰の文章でも同じことです。「添削」とは、このような筆者の思考の流れを最大限大切することでなければいけません。あちこち材料が散らばっている未整理の文章の中から、埋もれている思考の流れを見つけ出し、「あなたが書きたかったのはこういうことでしょう。それを分かってもらえるためには、こう書かなければならないでしょう」というように導いていくことが「添削」だ、と私は考えています。<br />
　そうしてできた文章には、筆者の発想を超えたそこだけが突出した部分もなく、少々表現は稚拙でも、大人が自分の発想を混ぜ込んだありきたりなものよりも遙かに発想が新鮮なことも多いのです。少なくとも、そのような文章なら、筆者自身が、できあがった文章に違和感を抱くことは絶対にないはずです。それをして「まだ中身がない」ということであれば、それは書き始める前の問題です。内容についてもう一度考え直させ、予備知識を仕入れさせるなど、文章を書くための素材を再点検させることから始めなければなりません。<br />
　生徒の文章を添削する立場にある方は、このようなことも頭の中に入れておいていただきたいと思います。<br /><br />
　なお、このような説明だけでは、具体的なイメージがわかないでしょうから、<a href="http://www.syouron.com/nyuumon/2007/02/post_23.php">筆者の発想法を考えたページ</a>などを参考にしてください。
</p>]]></description>
         <link>http://www.syouron.com/column/2006/05/post_2.php</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">0100-指導について</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 13 May 2006 19:14:25 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>中味を問わない技術などない</title>
         <description><![CDATA[　ありがたいことに今岐阜で持たれている全国高等学校全日制定通制国語教育総合研究大会（全国研）に出張で参加させてもらっています。
　とりあえず今日の文部科学省初等中等教育局視学官田中孝一氏の話を聞いて、勝手につらつら考えていたことを書いてみたいと思います。
　とてもじゃあないが、高校の生徒ほどにもよい聞き手ではないので、私の方でも誤解はたぶんにあるでしょうが。

　それで、ここで書こうとすることの要点は、「内容を度外視して、文章を書いたり、何かを発表したりする技術はない」という、これまた私がいつも繰り返していることです。

　田中孝一氏（先生と言うべきなのかな）が、おっしゃたことの一つに、「他教科でも作文力や発表の力は当然つける努力をするべきだが、他教科には「その教科の内容を教える」という主な作業があって、作文力の教育はやはり従になる。やはりその点、作文の技術の指導は、国語科が中心になってすべきである」というような話がありました。
　作文力や、発表力を、全教科をあげて育てなければならないということには、諸手を挙げて私も賛成しますし、作文技術の面でも、やはり国語科が責任を持ってやっていかなければならないだろうことにも、異論はありません。
　しかし、他の教科に主として教えなければならない内容があって、作文力が従であるのに対して、国語科では、教える内容とは別の技術だけを独立して教えなければならないというのはいかがなものでしょうか。


<div class="title-left">内容を伴わない技術は生きる力にはならない</div>

　話が突然飛躍しますが、そしてこれを言うと多くの批判を受けるのかもしれませんが、最近の英語教育でオーラルコミュニケーションなどというのをたいそうな時間をかけてやって、それで英語のコミュニケーション能力が身に付くなどとしたり顔で言っている輩（やから）を私は全く信用していません。「馬鹿なことを言うな」という気分です。あいさつをして、それから、道案内をしたり聞いたりするぐらいの会話ができたとして、それが何のコミュニケーション能力でしょうか。
　小学生でも、幼稚園児でも、母国語を使う者ならば、言葉は足りなくとも、自分の思いや要求を、相手に伝えることができるはずです。それがコミュニケーション能力です。大人であれば、ある程度思想的な内容でも、四苦八苦しながらでも伝えることができる、それがコミュニケーション能力というものです。
　大の大人が、挨拶をして、ちょっと道が聞けたと喜んでそれでよしとするのが今のオーラルコミュニケーションをやろうという発想です。確かに、英語コンプレックスを持っている人間が、ちょっと英語を話せた気分になって喜んでいる分には、それでもよいのかもしれません。しかし、そんなことをやったって、英語を使って生きる力を育てることには全くつながりません。
　それよりは、「従来通りの文法漬けの英語教育の方が絶対に中味がある」というのが私の考えです。それは、すぐに英語を使って挨拶ができなかったり、最初に英語を聞いたときに聞き取れなかったというようなことがあったとしても、基礎教養として本質的なところでの理解がきちんとしていれば、聞き、接することに慣れることで、将来英語を使って生きていくための素地を十分に身につけていると思うからです。たとえ表面的に挨拶などの言葉を交わすことはできても、それだけで、そこから発展する素地を全く提供しない現在のオーラルコミュニケーションなどよりは、将来きちんとそれを使って生きていくだけの素地を身につけさせることの方が、遙かに応用がきくはずです。
　ただ、従来のやり方にも、確かに悪かったところはあります。それは、発音を全く重視しなかった点です。しかし、それを克服するためには、ただネイティブというだけで、英語の本格的な勉強など、ろくすっぽしていないアルバイト気分の人間に、日本人の何倍もの給料を払うなんてばかげたことをまじめくさってやるのではなくて、骨のある思想性のある文章で、日本人がしっかり文法を教え込むと同時に、その同じ文章を、CDなどの音声教材を使い、徹底的に暗記させるしかありません。

　これと同じ愚をしているのが、国語で言えば国語表現です。中味がないのに、同窓会の案内文を書いてみたり、ディベートをさせてみたり。要するに、中味の難しいものを要求してみても多くの者が不消化に終わるから、内容を思いっきり下げて、いわゆる「技術」を身につけさせようという発想になるのでしょう。
　しかしこれも英語の場合と同じで、中味がないものをいくら形を整えて、作文を書いたりプレゼンテーションをしたりしてみても、そんなのは絶対に生きる力になるはずがありません。本質的な筋道を通す訓練を難しい内容でせずにおいて、その技術が実際の大人の生活の中で生きる力になるなどというようなことは、絶対にありません。
　発表、作文の技術とは、生活レベルの、発想ではなかなかまとめきれない事柄について、自分が漠然ととらえている内容を、漠然とではなしに自分自身がはっきりととらえ直して、そこで整理された内容を他人にきちんと伝えるということです。
　そのような根本的な発想の仕方を教えずに、最初に結論を言うとか、みんなに伝わるように、具体例を入れてみるとかいう、いわゆる技術を教えてみても、英語のオーラルコミュニケーションと一緒で、伝える中味がないのですから、それが生きる力につながることは絶対にありません。
　その様な教育改革を唱道する連中は、英語にしても国語にしても、「教育改革」をしたということを自分の功績にするべく、入試制度にしても、今までとは違ったことを自分たちがやっているということを標榜（ひょうぼう）して、それがさも自分の手柄であるかのように言わなければならない人たちなのですから、次から次から、内容の無い形だけの「改革」ばかりを主張するのです。しかし、それで結局中味のない教育を受けて被害を被るのは、本当に生きる力をつけなければならない生徒達なのです。


<div class="title-left">国語はあらゆる教科を教える何でも屋である</div>

　大学や研究者の間では、あらゆる学問が自分の存在を主張しています。しかし高校で学ぶ教科はせいぜい数個で、たいした数ではありません。大学で数多くある学問分野を高校の数少ない教科に割り振るとするなら、本来的には、国語に残るのは極端なことを言えば、たぶん、文学・言語教育の分野と、古典の分野くらいでしょうか。
　しかし、実際には、高校で他教科が担おうとしている勉強内容は、大学の教育内容から比べれば遙かに少ないため、他教科ではあまり正面から取り上げられなかった内容の中で、高校生がこれから生き考えていく上で知っておいた方がよいようなことを、国語の現代文で取り上げることが多いのです。いわゆる評論の分野はほとんどがこれです。
　そのようなことになぜなってしまうのか。その理由は簡単です。それは先ほどから述べているように、思考と切り離した技術など無いからです。どのような分野の内容であれ、生きる上で知恵となるような本質的な問題を含む文章を読み解く中で、文章や思考についての本質的な能力を高校生に高めさせようというのが、今日の高校国語の生きるべき姿なのです。
　高校までの国語が、そのような、大学教育の中では日本語学や、文学部の研究から遙かにはずれた多くの文章を取り扱うこと自体、「本質的な問題を含んだ文章に接することで、量的にではなく思考の質を根本的に変えていく」ことが、国語を教育する意義の内で、かなり重要な部分を占めることの証明になっているはずです。
　ですから、国語はその扱うことについて、責任を負わなければなりません。他教科の先生が、教える内容が先決で、それを表現することは副次的なことにすぎないというような姿勢でいるならば、生徒たちは、先生方の姿勢の如何（いかん）に関わらず、入試で小論文を要求されているわけですから、誰かがその尻ぬぐいをしなければなりません。そしてそれをするのは、国語の教員しかありません。

　国語の教員の中にも、「それは社会科や理科の問題であって、専門的なことは、私たちでは指導できない」というように、責任を他に持っていこうとする人たちはたくさん居ます。しかし、そのような分野で、内容の検討を抜きにして、字句の訂正をしてみたとしても、そこでできあがる文章は、元の文章と五十歩百歩です。それは一番要求されるのが、事の本質的な理解であるのに、そこの部分が全く改善されることがないからです。
　そのようなことがないように、国語の教員が作文や小論文に携わろうとすれば、確かに私たちはその分野の専門家ではないかもしれませんが、教師自身が自分の持てる思考力や、調べる力をフルに発揮して、生徒の思考の質を本質的に変えていくしかありません。その点で、私は、国語の教員は他の教科の専門家たちでさえ育てようとはなかなかしないその教科での本質的な思考能力を高める手助けをしているのだという自負を持っています。
　確かに私たちは専門家ではありませんから、指導をして、それ以上に思考を促す部分での指導は、他教科の先生にお願いすることもよくあります。しかしそれは、基本的な思考の枠組みを、自分の力の及ぶ限りで生徒に整理させてから後のことです。

　このような意味で、国語の教員は、他教科の先生以上に、本質的な思考形成能力を高めていなければなりませんし、実際そういう教員は多いはずだと私は思っています。

　それが、「国語はあらゆる教科を教える何でも屋である」ということです。]]></description>
         <link>http://www.syouron.com/column/2006/09/post_3.php</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">0150-国語教育</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 02 Sep 2006 06:19:45 +0900</pubDate>
      </item>
      
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         <title>自分で考える力をつけるなどと言うけれど</title>
         <description>　「内容から独立した技術」という発想の話を前項でしました。それと同じような考え方の例として、「考える力を身につけさせる」ことをスローガンにしてよく行われるやり方について考えておきたいと思います。

　ここで改めて言うまでもなく、このような教育は、教科書に書かれている知識の詰め込みをしただけで満足している従来の詰め込み教育への反省から必要性が叫ばれるようになったものです。
　確かに、知識を詰め込んで、その詰め込んだ知識をどのようにこれから活かしていくのかを身につけさせようという発想がない教育は、頭でっかちで生きる力の無い人間を量産してしまうという点で問題でしょう。しかし、それではと言って、知識を丸暗記させることは本当にそれほど悪いことなのでしょうか。むしろ、考える基礎となる知識の習得を全く無視した、「生きる力」「考える力」などというものをもっともらしく主張し、それに子どもを巻き込むことの方が、もっと大きな問題を生むのではないでしょうか。
　

　私の小学校時代の記憶として、今でも鮮明に覚えていることの一つに、理科でのある実験のことがあります。
　それは、例えば水を、冷蔵庫などを使わずに凍らるためにはどうすればよいかという実験でした。実験に先立って、先生は生徒にどうすればよいかを発表させます。私などのようなのんびりした生徒は、洗面器に氷を入れた水をためてみようなどと訳の分からないことをいいます。そのような意見の中で、あらかじめ予習をしてきている生徒が、洗面器の氷水の中に塩を入れてそれに水を入れたビーカーをつけておこうと言うのです。
　それなら各自が言うようにさあ実験してみようということになるわけですが、当然、教科書に書かれていないようなやり方では、うまくいくはずもなく、私などはわびしく氷を入れた洗面器のお守りとなります。
　「考える力」「生きる力」とは、これまでの生徒の生活レベルから一歩抜け出すからこそ、身に付くものです。言葉を換えれば、これまでの生活レベルの浅い思考を乗り越える知恵そのものが、「考える力」「生きる力」だともいえるわけです。
　よくできる生徒は、ひょっとしたら水は０℃以下になると凍り始め、氷を入れただけでは、水が０℃以下になることなど無いと知っているかも知れません。しかしそれでは、それをさらに０℃以下にするにはという問いかけをして、彼らがこれまで身につけてきた知識を総動員して考えても、答えは出てこないはずです。そのような生徒の思考レベルを上げる力にならないことを、いくら形の上だけで考えさせるふりをしてみても、力にも何にもなるはずがありません。ただ時間つぶしを大量にするという意味で、「塩を入れる」と覚え込ませるよりも、さらに無駄な教育です。
　ですから、このことでもし生徒に考えさせる力を身につけさせ、発見の喜びを感じさせようとするなら、「凝固点降下」ということについて、このようなことがあるというような基本的な考える材料を与えておいて、すなわち、生徒が自分の持っている知識を総動員すれば、問題を見つけ出したり、発展させたりすることができるような状況をつくっておいて、その基礎に立ってさらに問題意識を喚起させる発問を工夫していかなければならないはずです。

　このように、考える内容や、材料を抜きにした、考える技術・力などというものはやはり存在しません。私などの部外者が想像するに、小学校の生活科の取り組みが、どうもうまく機能しているような気がしないのも、ここに原因があるからです。
　「生きる力」「考える力」という面でも、表現・作文の力と同様、やはり、生徒がこれまで身につけている生活上の常識を、一段高いところで捉え直させる努力・工夫をしない限り、形ばかりで内容などないことを、いくらもっともらしくさせてみても、それは全く時間の無駄でしかないということを、我々教育する側は、もう一度確認しておかなければなりません。</description>
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         <pubDate>Sat, 02 Sep 2006 06:25:27 +0900</pubDate>
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